人が思いをかけている。一度|高麗《こうらい》の奴に盗み出されたことがあったが、それは神剣の威光で無事戻って来たという奇蹟もある。異国にはよい刀が無いから、日本の神剣を盗みたがる、戦争が始まれば、必ず海からこの熱田へ黒船が侵入して、真先に神剣を奪いに来るなんぞという浮説が、日頃この辺の人心をそばだて、そこで騒ぎがあると朝鮮人! そこで、仏壇を背負い出す手順になったものらしい。
 米友には、いつまで経っても、それが解《げ》せないのです。よし異国人が押しかけて来たからといって、こっちが負けるときまったわけのものではなし、いったん気を落着けてから、気を揃えてかかるのが本当だと信じているのに、影も形も見ない先に、仏壇を背負い出すことは、全くいわれのないことだと思いました。
 しかしながら、米友が車上にたった一人置去りにされたのみならず、この附近の町内は全く無人の境です。
 どうにも仕様がありません。この分では、こうして長いこと待っていたところで、逃げて行った奴は容易には戻るまい。
 いつまでも、ここにこうしているのも気が利《き》かない。そうかといって、これを打捨てて自分も走るという気にはなれない
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