ったことは、如何《いかん》ともすることができません。
 熱田の宮の前で、東西の相撲があげて大血闘を起している、死傷者無数、仲裁も、捕手も、手がつけられない、まるで一つの戦争である、なんでも尻押しは、海から軍艦で来た異国人であるそうだ、やがて熱田から名古屋が焼き払われる――この風聞が街道筋を矢のように飛びました。
 これは、あながち、根拠の無いことではありません。現に、あの鳥居|傍《わき》の袋叩きの乱闘を一見したものは、たしかに、それほど大きく吹聴すべき根拠はあったのです。それが輪に輪をかけたというだけのもの。
 町並、街道筋の驚愕と狼狽――ひとたび、浦賀へペルリが来てから以来、日本人の神経は過敏になり過ぎているようです。物の影に怖《お》じたがる癖がついている。影を自分から拡大して、そのまた拡大した影に、自分から酵母を加えて驚きたがる癖が出来たようです。
 熱田の宮前では、今や家財道具のおもなるものを持ち出すの騒ぎになっている。仏壇を背負い、犬猫を蹴飛ばすの混乱になってきました。おりから、このところへ通り合わせた車上に於ける宇治山田の米友と、その車力。
 車力と後押しはこの騒ぎを聞くと逸
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