庵先生は、ここにいないのだ。
影の形に添うが如く、離れてはならない自分というものは、わが道庵先生と全く離れてしまっていることを、身に火のついたほどに米友が感得しました。
今までとても、道中、しばしば形と影とが相離れた経歴はあるが、それはホンの戯れ、しかも、米友自身は寸暇も責任をゆるがせに感じてはいないのに、道庵先生そのものが、ふざけ[#「ふざけ」に傍点]きっているのだから、責めはこっちになくして、あちらにある。今晩のはそうではない、自分が主動的に責任をおっぽり出して、仮りにも主人をないがしろにしてしまったのだ。
うむ、あれからあれ、それからこれ――鳴海神社で不思議の婦人に伴われてここへ来て、そうだ、そうだ、自分にとっては全く苦手な女軽業の親方に、ぶっつかって、うんと油を絞られたのは、つい今しがたのことであった。おぞましいこと、疲れがさせたために、こんなに寝込んでしまった。どっちを、どうしたら、いいだろう。親方に断わるのが本当か、これから先生のところへ馳《は》せつけるのが筋道か。
ともかくも、うっかりこのままじゃいられねえ、全くこうしちゃあいられねえ身の上なんだ、さあ、出かけよう
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