郷の方へ連れ戻されているかも知れません、時々、あちらからあの子の声が聞えます。弁信さん――いま富士山の頭から面《かお》を出したのはお前だろう、なんて――あの子が海岸を馳《は》せめぐって、夕雲の棚曳《たなび》く空の間に、私の面を見出して、飛びついたりなぞしている光景が、私の頭の中へ、絶えずひらめいて参ります。ですから、私はあの子に逢いたければ、甲州から、いっそ相模へ出て、一息に船で渡らせてもらいさえすればよかったのです、必ずあの子に逢えたのです。それにもかかわらず、私は全くそれと別な方向を取って、信濃路へ分け入りました。信濃路も、この奥深い、日本の国の天井といわれるところまで分け入って参りました。道程は決して、滑らかなものとのみは申すことはできませんのでございます。ところもところでございましょう、時も時でございましょう、旅に慣れた身の上、むしろ旅を生涯とする私の身とは覚っておりますけれども、やはり雪の降る日には寒いと感じますことは、皆様も、西行法師も、私も、変ることはございません――里でたずねられました時、白骨まで参ります、と答えましたところが、里の人がわたくしを拝みました。それでは、もしや、あなた様は、伝教大師《でんぎょうだいし》の御再来ではございませんかといって、この弁信を伏し拝んだ光景が、はっきりと私の頭にうつりましたから、私は驚いてしまって、その人の手を取って起き上らせ、勿体《もったい》ない、どうしてわたくし風情《ふぜい》が、古《いにし》えの高僧のお生れかわりだなんて、僭越《せんえつ》も僭越――左様なことをおっしゃられると、私は冥加《みょうが》のほどが怖ろしうございますといって、その人の手を取って、私がその方の前に平伏してしまいました。だが、その方は、どうしても、あなた様は伝教大師の御再来に相違ないといって、わたくしを立てて、御自分が、わたくしの前に跪《ひざまず》いて頭をお上げなさらないのに、私は窮してしまいました――そんなようなわけで、私はこの際の白骨入りは、ほとんど凡人業《ぼんじんわざ》とは見えないほどの冒険と見えたのでございましょう――事実、私は御覧の通りの瘠《や》せ法師で、大きな胆力も無ければ、勇気のほども微塵《みじん》あるのではございません、ただ人生を旅と心得ていることだけを存じておりますものですから、到り尽すところが、すなわち私の浄土と、こう観念を致しておりますものでございますから、旅を旅とは致しません、旅が常住でございます。陸に住む人は、水へ行くとあぶないと子供を叱ります、水に住む人は、陸は怪我をし易《やす》いからといって子供を叱ります、旅を常住とする私が、旅を恐れないのは、死がすなわち人生の旅宿《はたご》だと、こう信じておるからでございます――私風情は取るにたりません――古来、大いなる旅行家は皆、大いなる信仰の人でございました」
十四
白骨の温泉では、いたずら者の北原賢次が、例の炉辺閑談《ろへんかんだん》の間で、炉中に木の根を焚いて黍《きび》を煮ながら、一方ではしきりに小鳥いじりをしている。
見るところ、やや大きな小鳥籠が三つあって、その中に都合十羽ほどの鳥がいます。その鳥はみんな鳩です。
十羽の鳩を前に置いて、北原賢次は白樺《しらかば》の皮を剥《む》いて、それを薄目に薄目にと削りなしている。賢次は、剛情で、いたずら気分を多分に備えた男だが、器用で、絵心もあり、細工物に味を見せることもある。
そんなことが、この冬の温泉ごもりには、結構な退屈しのぎになるらしい。小鳥を前にして、しきりに白樺の皮をなめしていると、
「北原さん――」
という覚えの声。
「おや、お雪ちゃんじゃありませんか」
賢次は白樺をなめしていた手を休めて、全く物珍しそうにこちらをながめ、
「珍しいじゃありませんか」
「お一人ですか、何をなさっていらっしゃるの」
「お雪さん、まあおはいりなさい、いま拙者がしきりに工夫を凝《こ》らして、一代の大発明を完成しようとしているところです」
「お火がありましたら、少し頂戴させていただきとうございます」
「火ですか――」
北原賢次は今更のように炉中を見ると、よく枯れた木の根が煙を立てずに赤い炎を吐いている。
「有りますとも、この通り。お持ちなさい、いくらでも」
火箸《ひばし》を取って火を掻《か》き出してやると、お雪は中へはいって来て、
「ほんとにわたしの部屋は変なのです、いくら炭をついでも、立消えばっかりしてしまいますものですから」
「それはいけません、炭が悪いんでしょう、火種ばかりよくっても、炭が悪くっては持ちません」
「炭だって、そう悪い炭じゃないようですけれど、熾《おこ》ったから安心と思っている間に、水をかけたように立消えてしまうんですものね」
「では、炉がいけないのでしょう、下に抜穴があるか、或いは水分がしみ込むように出来ているのかも知れません」
「いいえ、見たところ、異状はありません、それに三階ですから、水の来る心配はないはずです、おおかた、部屋が陰気に出来ているせいなんでしょう」
「陰気――或いはそうかも知れません。陰気といえば、お雪さん、あなたこそ、ちかごろは、めっきり陰気が嵩《こう》じてきました、我々仲間でも、蔭ながら心配しているのは御存じでしょう、以前のような快活になれなければ、せめてもう少し元気におなり下さい」
「有難うございます、自分では、そんなつもりはないのですが、皆さんがそうおっしゃって下さるので、いやになってしまいます」
「あんまり一間にたれこめて、御病人の看病ばかりなさっているからです、たまにはこっちへ出て来て、この剽軽者《ひょうきんもの》の賢次の話相手になって御覧なさい、少しは気も暢《の》びてきますよ」
「それでも、何かと忙しいものですから、つい」
「何が忙しいことがあるものですか、忙しいほどの仕事がおありなさるなら、人にぶっかけておやりなさい、拙者なんぞにも、手伝わせてやって下さって差しつかえはございません」
「どうも、皆さんがお集まりのところへ出るのが、気のせいか、ひけ目に思われるようになりました」
「まあ、お話しなさい、火種はいつでもありますよ、この炉の中の火は、安芸《あき》の厳島《いつくしま》の消えずの火と同じことで、永久に立消えなんぞはしないから」
と言いながら、火箸を取り直そうとする途端、薄目になめした白樺の皮が、螺旋《らせん》を画いたように、ころころとお雪の足許《あしもと》に転がって行きました。
「おや――」
お雪は蛇にでも覘《ねら》われたように、忽《たちま》ち足を引っこめて、
「何になさるのです、白樺の皮じゃありませんか」
「ええ、ちょっと手ずさみです。いや、手ずさみではありません、これからは一世一代の発明として、実用に供してみようという準備の細工なんですが」
「まあ、鳩をみんなお出しになって、並べてしまいましたね」
「ええ、その鳩のために、この白樺の皮の工夫があるのです」
「何になさいます」
「まあ、おすわりなさい、少しぐらいいいでしょう、ほんとに暫くでしたから、まあお話ししていらっしゃい、お茶をいれて、蕎麦饅頭《そばまんじゅう》を御馳走します」
「どうぞ、おかまい下さいますな」
「まあ、お話しなさい、それに、この大発明について、あなたのお知恵も拝借したいと思っていたところですから」
「わたしに知恵なんてございませんが、当ててみましょうか」
「当てて御覧なさい」
「この鳩に持たせる軽い文箱《ふばこ》を、その白樺の皮でこしらえようとして、苦心していらっしゃるのでしょう」
「図星《ずぼし》!」
賢次は、わが意を得たりとばかり喜んで、
「お雪ちゃんの頭のいいことは、今に始まったことじゃないが、全く恐れ入ったものです、それに違いないのです、よくそこまで想像が届きましたね」
「なに、頭のいいこともなにもあるものですか、あなたはこのごろ、しょっちゅう、そうおっしゃってじゃありませんか、この三つの籠《かご》のうち、一つは飛騨《ひだ》の平湯行、一つは信州の松本行、一つは尾張の名古屋行だが、これに持たせてやる文箱《ふばこ》が無い、文箱が無くては、鏡山のお初でさえ困るだろうから、ひとつこの鳩に持たせる文箱を工夫してやりたいなんぞと、口癖のようにおっしゃっていらっしゃったではありませんか」
「そうでしたかね、そんなことを口走りましたかね、あんまりのぼせていたものですから、自分では気がつきませんでした」
「そうして、御工夫がつきましたの、その発明とやらが成就《じょうじゅ》なさいましたの」
「成就はしませんが、目鼻は明いたようなものです、御覧なさい……」
北原賢次は、薄目になめした皮で、小さな目籠のようなものを仕立てたのを、取り上げてお雪の目の前に出し、
「これなら、この平和の使に持たせてやっても荷にはなりますまい。この程度に薄めて、この裏へ通信の文字を認《したた》めるんです、そうしてこうクルクルと捲いて、鳩の風切羽《かぜきりば》か、足のところへそっと結びつけるのですな、そうすれば、紙と違って、雨に逢っても、まず大丈夫だろうと思うんです」
「可愛らしい文箱ですね」
「お使者が可愛らしいから、文箱もそれに準じてね」
「ですけれども、これでは字を認めるところが、あんまり狭いではありませんか」
「その辺が精一杯ですよ、それより広くした日には、使者に持ちきれません」
「これでは、三十六文字ぐらいしか書けませんのね」
「眼鏡をかけて書けば、百字は書けますよ」
「でも、せっかくのたよりに百字ぐらいでは、何にも、言いたいことが言えないじゃありませんか」
「それはお雪ちゃんのような、文章家には、ずいぶん不足でもありましょうが、きんきゅうの用事ですと、百字書ければ大抵の要領は書けますからね」
「ねえ、北原さん」
お雪は何と思ったか、腰を落着けるようにして、籠の中の鳩を見ながら賢次の方にすりよって――
「北原さん、今わたしも思いついてよ、この鳩と、その文箱を、わたしにも貸して下さらない?」
「ええ、お貸し申しますとも、これだけあるのですからお望み次第です」
「どうぞお貸し下さい、わたしは、この鳩に頼んで上野原まで使に行ってもらいましょう、それともう一箇所は房州まで……」
「そいつはいけません、鳩というやつは、よく使をするにはしますけれども、無条件でどこへでも行くというわけにはいかないのです、ある特定の場所のほかへは、自由に使命を果しに行く能力がありません、そこが畜生の悲しさですね」
「でも人間と違って、羽で行くんですから、どこへでも行けそうなものですのにねえ」
「それが実際そうはいかないので、この籠の分は飛騨《ひだ》の平湯行、こちらのは信州の松本行、それから、これが尾張名古屋、三カ所に限ったものです。その三箇所も無事に行きつき得るかどうか、一応の試験を要しますね。平湯と、松本の分は、これは交通杜絶《こうつうとぜつ》の場合、万一を慮《おもんぱか》って、両方の宿の経営者が交換しておくものですから、この方は間違いありませんが、この尾張名古屋の分は、この秋帰った湯治の客が置きっぱなしにして行ったものですから、もう通信能力がぼけ[#「ぼけ」に傍点]てしまっているかも知れません」
「女は鳩より馬鹿だといいますからね」
「何をおっしゃるんです」
北原賢次が、呆《あき》れてしまって、お雪ちゃんの面《かお》を見直すと、お雪ちゃんは、
「それでもなんでもかまいませんから、わたしはそれを一つ拝借して、手紙を頼んでやってみましょう」
「それを御承知ならおやすい御用です。では、どちらにしてみますか、飛騨の平湯行に致しますか、それとも信州の松本、あるいは、やや遠く離れて尾張の名古屋」
「ええ、それでは尾張の名古屋行を一つ、お貸し下さいましな」
「よろしい、承知しましたが、しかし、お雪ちゃん、あなたは名古屋に、お知合いがありますか」
「いいえ、少しも知った人はありませんけれど、弁信さんに宛ててみましょう」
「弁信さんというのは?」
「あたしのお友達よ」
「へえ、あなたの
前へ
次へ
全52ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング