緒に行かないとは言いません。どうだね、行く気がありますか、その信濃の国の、白骨の湯というのに……」
 眠っていると知りつつ、こんなように口説《くど》いてみたのは、自己安心の気休めを試みてみたのでしょう。ところが、今度は意外にもてごたえがありました。
「お姉様、あなたが、一緒に、いらしって下さるところならば、どこへでも参りますが……」
「おお、お前、目がさめていましたか、そうして、その白骨というところまで行ってみる気になりましたか」
「お姉様の思召《おぼしめ》しなら、どちらへでもお連れ下さい」
「では、お前、白骨へ行きますか」
「はい……」
「といって、すすめたわたしが、お前に素直に同意をされてみると、また二の足を踏みたいような心持。話の上では、どうにでもなるけれど、事実、ほんとうに、病人のお前と、女の身のわたしとが、その白骨まで行くのは、生きながら命がけの旅ではないか知ら、と思われないでもありません」
「御迷惑なことでしょうね……」
「でも、そこへ行ってほんとうに、お前の病気に利《き》き目《め》があるものならば……ずいぶん命がけの旅もしてみましょうけれど、事実ホンの噂《うわさ》だけで、それほどの旅を、仕甲斐《しがい》があることやら、ないことやら……一つ間違えば……いったい、わたしはその白骨という名前からして、気になってなりません」
「ハッコツとは、どういう字を書きますか」
「シラホネと書くのです、白い骨という字だから、ぞっとするではありませんか」
「名は何でもかまいません。それでも、お姉様、あなたがお気が進まないならば、わたしもいやです」
「気が進まないというわけではありません、いっそ、気はハズミ過ぎているくらいですから、すすめてもみたのですが、場所が場所だけに、二の足も踏むのです」
「白骨の湯もいいでしょうけれど、わたしは正直にいえば、お姉様と、肥後の熊本へ行きたいのです」
「熊本へですか」
「ええ」
「だって、熊本には、お前の病気を療治するようなところは、ないじゃありませんか」
「でも、わたしは、尾張の国の名古屋城下で死ぬよりは、肥後の熊本で死にたいのです」
「いいえ、お前はまだ、死ぬということを言ってはなりません、それを思ってもいけないのです、ですから、熊本へはやれません」
「阿蘇の山ふところには、湯の谷だの、栃の木だの、戸下だのという温泉があると聞きました、白骨へ行く代りに、そちらへ行って済むものならば、そちらへ行きたいと思ったばかりです、深くお気にかけなさいますな」
「お前は、熊本が好きですか」
「御先祖の地だということが、どうも、絶えずわたしを引きつけて、どうしても肥後の熊本が、墳墓の地のように思われてなりません」
「御先祖の地は熊本ではない、この尾張の国が、本当に、御先祖の発祥地だという気にはなれませんか」
「どうも、それが……どうしても、そういう気になれないで、熊本が、ほんとに慕わしい故郷の地……というような気ばかりしてならないのです」
「お前までがそれだから、縁があって、縁の無い土地というものは仕方がありません。ほんとうに、よく覚えておいでなさい、加藤という加藤家は多いけれども、清正公の最も正しい血筋を引いたのは、お前だけですよ、お前が亡くなると、加藤清正公の正しい血筋は絶えてしまうのです。そのお前が……お前に加藤家の血統を絶やさないようにと、わたしがどのくらい苦心をしているか、それをお前にわかってもらわなければなりません。加藤清正は、秀吉公の御親類で、まさしくこの尾張が故郷であるのに、あの名古屋の城の天守も、清正公が一期《いちご》の思い出に、一手で築いたものであるのに、その清正公は尾張の土になれないで、肥後の熊本に祀《まつ》られていますけれど、あの名古屋の城の天守を見るたびにわたしは、あれを一手に築いて、徳川の一族に捧げた清正公のお胸の中を思いやると、胸が涙でいっぱいになります。そこで、わたしはどうしても加藤の家の血統はたやしてはならない――という気になっているのです。わたしが今、こうして無事に離縁を取って、行いすましたような暮らしをしているのも、一つはお前を見たいからです、お前の看病をして上げたいからです。どんなにしても、お前の身体《からだ》を丈夫にして、お前のあとを絶やさないようにして、そうして加藤清正の正しい血統の者の眼で、尾張名古屋の城を見返してやりたい。いつか知らず、そんな時が来るような気がしてなりません。清正公が丹精して、一期の思い出に築いて置いたあの名古屋の城は、決して徳川に捧げるためではありませんでした、いつか、わが一族、広くいえば豊臣か加藤か、両家の者……その最も正しい血統の者の手にかえされる時がある、わたしはそのような夢に襲われ通して来ました。それですから、あの名古屋城を見るたびに、主家の本丸とは見ないで、奪われたわが屋敷あとを見るような気がして、いつか知らず取返さねばならぬ、時が来たらば、再びわが手に落ちて来る、というような予感にかられ通して来ました。でも、いくら夢に襲われても、女の身では仕方がありません、縁づいた先に子供は幾人あっても、それが同じように加藤を名乗ってはいても、いずれも血は薄い、この世には、清正公の血を引いた家筋で、お前とわたしより濃いのは無い、その二人が、一人は女で、頼みきった男のお前が病身――わたしのこの残念な気持を察しておくれなら、お前はどうしても丈夫にならなければなりませんよ――お前が丈夫になると共に、お前の血統を絶やしてはなりません。わたしの血ではもう薄いのです、お前のでなければなりません。お前は自分の身体をよくすると共に、どうしても、お前の子孫というものを持たねばならない責任を忘れてはなりませんよ。加藤を名乗るもの、清正公の系図を引くという家柄は多いけれど、お前より正しい者はありません。その正系のお前よりも、傍系の、あるかなきかの系図を言い立てた者が上席にいて、我は顔[#「我は顔」に傍点]をするのを、お前は口惜《くや》しいとは思いませんか。それを口惜しいと思うなら、お前は今いう通り、丈夫な人になって、お前の血統を絶やしてはなりません。たとえどんな不具《かたわ》でも、馬鹿でもよいから、お前の胤《たね》というものに加藤の家をつがせて、尾張名古屋の城を見返すように、この、わたしがついています」

         十三

「久しぶりにお目にかかります、私は弁信でございます。どうぞ皆様、御心配下さいますな、これでも旅には慣れた身でございます、旅に慣れたと申しますよりは、生涯そのものを旅と致しておる身でございます、生れたところはいずことも存じませぬように、終るところのいずれなるやを、想像をだに許されていないわたしの身の上でございます――はい、甲州、有野村の藤原家を尋常に、お暇をいただいて出て参りました、御縁があればまた立帰って、御厄介になると申し残して出て参りました。お銀様のことでございますか。あのお方は泣いておいでになります、あれ以来、毎日泣きつづけておいでになります。あのお方のは、悲しくて泣くのではございませんよ。無論、嬉しくて泣くのではありません。どうして、泣くのです。どうして、今になって泣かねばならないのですか。火事の前後のことは、わたくしがここで申し上げませんでも、皆様、たいてい御推察のことと存じます。あの前後には、お銀様は泣けなかったのです、それから三日目でしたか、あの日からお銀様が泣き出しました。泣き出すと、どうしても止まることができません、わたくしも、それをお止め申すことができません、大河の堰《せき》を切ったように、あの方が泣き出してしまいました。そうしてあれから、焼残りの土蔵の二階に、泣き伏したままでいらっしゃいます。誰もそれを慰めて上げるものがありません、無いのではありません、誰も近寄ることができないのです。わたくしだとて、その通り、あの方の涙を堰《せ》きとめるほどの力は、とうてい持合せがございませんのです。ちょうど、大火の盛んなる時は、いかなる消防の力を以てしましても、手のつけようがないように、あの方の泣き出したそれを慰めようのなんのと、そんな力があるべきはずのものとも思われません――お銀様は、今もあの焼残りの大きな土蔵の中で慟哭《どうこく》していらっしゃいます、号泣しておいでになります。その泣きつづけている声が、国を離れてこうして旅に出ている私の耳に、この通り響き通しなんでございます。あの号泣の声の嗄《か》れ尽す時がいつであるか、それをわたしは知ることができません。あの溢《あふ》れ出ずる涙の川のせき止まる時がいつであるか、それも、わたくしにはわかりません――そこで、わたくしは、泣いているお銀様に、土蔵の下まで行って、黙ってお暇乞《いとまご》いをして出かけて参りましたが、無論、弁信さん、お大切《だいじ》に行っておいでなさいとも、おいでなさるなとも御挨拶はございませんでした――私も、また、どうぞ、この際、あの方に泣くだけ泣かして上げたいと思いまして――あの絶大な号泣を妨げるのはかえって、わたくしの出過ぎである、冒涜《ぼうとく》であるというように感じたものですから、お暇乞いの時も、わざと言葉には一言もそれを現わしませんで、心の中で快くお別れを告げて参りました。快く……ほんとうに今度は快くお別れをして参ったと申しますのが、いつわらざるわたくしの心情でございました。人様がそれほど泣いていらっしゃるのに、それをあとにして快く出て来たなんぞと申し上げますれば、さだめて皆様は、わたくしを憎い奴だとお叱りになることでございましょう。さりながら私は、本気に快く出かけて参りましたことをいつわるわけには参りません――わたくしは、泣けるようになったお銀様の、あの心持を喜ばずにはいられません。無論、あれは喜びの涙でないにはきまっていますけれども、未《いま》だ決して懺悔《ざんげ》の涙でもございません、何とも名状のできない号泣でございます。けれども、泣けるようになったお銀様、そうして泣きたくなった時に、思いきり泣くことを許されているお銀様を、幸福だと信ぜずにはおられません。そこで、私は快くこうして旅路に出て参ったのでございます。そういうわけで、お銀様には親しく御挨拶をしないで出立して参りましたが、御主人伊太夫殿へは、お世話になったお礼を述べて参りました。この錫杖《しゃくじょう》と鈴でございますか――これは、その時の伊太夫殿から餞別《せんべつ》にいただきました。そうしてこれからわたくしはどこへ行く? とおたずねになりますか。はい、もうやがて間近いところの乗鞍ヶ岳の麓《ふもと》の、白骨の温泉まで私は参るその途中なんでございます……
 どうして、また今時分、信濃の国の白骨の温泉なんぞへ行く気になったのか――それは一言でお答えを致すことができます。お雪ちゃんがいるからでございます、あの子がしきりに、わたくしを招くものでございますから――といったところで、手紙を一本もらったわけでもなし、飛脚が届いたというわけでもありませんが、どうも、あのお雪ちゃんが絶えず、わたくしに呼びかけているのが、かわいそうで、気の毒で、たまらない気がするものですから、どうしても行って上げたい気になってしまいました。私の逢って上げたいと思う人は、お雪ちゃんばかりではありません、清澄の茂太郎、あの子にもめぐり逢いたくってたまらないのですが、逢いたくって逢わずにいるうちにも、あの子のは心配はありません、あの子はどこへ行っても人に可愛がられます、人に可愛がられ過ぎるから、人以外の者にかえって親しみを感ずるような子供でございますから、高山深谷、あるいは大海原の只中《ただなか》、あるいは無人の原野の中へ一人で抛《ほう》りっぱなしにして置きましても、心配というものは更にございません。それに比べるとお雪ちゃんはかわいそうです、茂太郎がわたしに逢いたがっている心と、お雪ちゃんがわたしを頼りにする心とは、性質が違うのでございます――私の今の感覚によって想像してみますと、茂太郎は海の方へ出ていますね、多分、房州の故
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