向に埒《らち》が明かない。
 誰ひとり、剥がしたという者もない。蔵《しま》って置きました、と名乗って出る者もありません。
 そのうちに、昨晩の面《かお》ぶれは、すっかり集まったが、二枚の紙の行方《ゆくえ》が全く要領を得ないことになると、そこで、一つの疑惑が産み出されてしまいました。
 ことに醒ヶ井側は、このごろヒレがついて、自分に楯《たて》をつきたがる初霜のやからが、何か反感を以てしたことでもあるように取るし、初霜の方はまた、例の醒ヶ井側の意地悪から出たことに違いないと邪推し、両々|甚《はなは》だ気まずい空気が漂って来たが、おたがいになんらの証跡をつかまえているわけではないから、口に出す者はありません。
 番附の紛失が、奥女中同士の中へ、こんな暗雲を捲き起し、深い堀をこしらえようとはしているが、もし、これが仮りに番附の紛失だけにとどまって、長局全体の被害が救われたこととすれば、勿怪《もっけ》の幸いであったと見なければなりません。
 たとえば、化政から天保の頃にはやった、大名高家の大奥や、長局《ながつぼね》を専門にかせいだ鼠小僧といったような白徒《しれもの》があって――昨晩、この長局をおかしたとすれば、それは一枚や二枚の番附ではすむまい。かけがえのない宝を盗まれたり、取返しのつかない負傷をさせたり、お役目向に責任者が続出したり、それやこれやで容易な騒ぎではおさまるまいに、まあ番附の一枚や二枚が、見えたり隠れたりしているうちは、問題とするに足るまい。
 だが、有ったものが無くなったということは気になる。場所柄が長局であるということと、それと、ここでは誰も知った者のあろうはずはないが、昨今、この城下へ姿を現わした、あのイケしゃあしゃあとした、いや味たっぷりの、色男気取りの、向う見ずで、意気地なしの、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百というやくざ者の姿を思い浮べてみると、いい気持はしない。場所も場所、時も時、野郎またやったかなと、知っている者は口惜《くや》しがるに違いない。

 果して、その翌日、枇杷島橋《びわじまばし》を渡って西の方へ向いて、何か瓦版《かわらばん》ようの紙をひろげて、見入りながら歩いて行くがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵を見る。
「おっと、危《あぶ》ねえ、気をつけておくんなさいよ」
 問屋町の青物市場から来た青物車を避ける途端に、取落したその紙を、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、あわてて拾い上げたのを見ると、何かしらの番附らしい。
 さてこそ、昨夜の長局の紛失は、まさしくこやつの仕業《しわざ》に相違ない。
 だが、こやつとても、あの晩の品定めがあることを、あらかじめ窺《うかが》い知って、あの番附を盗みにわざわざ城内に忍び込んだとは思われない。
 これは何か別の謀叛《むほん》があって、南条、五十嵐あたりに頼まれ、城内へ忍び入って、偶然、かしましい長局の品定めを立聞きしたことから、結局、この方が自分の趣味にかない、委細をすっかり聞取ってしまって、その最後のみやげが、あの長押《なげし》に貼った二枚の番附だけの獲物《えもの》で充分に甘心して出て来たものと思われる。
 そこで、多分、このほかには被害は無いでしょう。ありとすれば、あの番附二枚が、今はいかなる手品の種に使われるかというだけのことです。
 このやくざ者のことだから、この番附をたよりに、名所廻りでもする気になって、番附面の美しい人たちを軒別《のきべつ》に歴訪して、見参《げんざん》に入《い》ってみたいというような野心を起さないとも限らない。
 そこで、今も、青物車に突き当ろうとしたことほど一心に、番附面に見惚《みと》れて歩いて来たのだが、取落して、また拾い上げた途端に、端の折れ返った表を見ると、
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「次第御免」
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と真中に大きく、頭書《とうしょ》には、
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「名古屋|分限《ぶげん》見立角力《みたてずもう》」
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 少し変だと思って、なおよく見ると、
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「大関、内田忠蔵――勧進元、伊藤次郎左衛門」
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 おやおや、この番附は違う。

         十一

 その夜、山吹御殿の一間に、経机に凭《もた》れて、じっと向いの襖《ふすま》の紋ちらしを見入っている、大丸髷《おおまるまげ》に黒の紋つきを着て、縫模様のある帯をしめた、色のあくまで白い、髪のしたたるほどに濃い、中肉のすらりとした一人の女性――美人には年は無いと言っていいかも知れないが――玄人《くろうと》が見れば、四十を越していると言うでしょう。
 この女性が、見入っている紋ちらしの襖は、古色を帯びた金ぶすまで、その上に、紫で彩られた桔梗《ききょう》、それに朱でたっぷりとまるめられた蛇の目、それが比翼に散らしてあるのが、見渡す限りずっとこの一間を立てきっている。それを朱塗の丸行燈《まるあんどん》が及ぶ限り映して、映し足りないという色を見せているものですから、さながら古城内の評定の間を思わせるような、広さと、わびしさを漂わせている中で、経机の上に置かれた短冊と、筆とが証明するように、この夫人は、歌を思うているものらしい。
 五条川の水の音も静かだし、古城址に啼《な》く梟《ふくろう》の音も遠音に聞えて来るし、木立《こだち》の多い広い屋敷の中の奥まったこの建物の中の夜は、いかさま歌を思うのにふさわしいものらしい。
 右の桔梗と、蛇の目の紋散らしの襖の外で、その時軽く咳《せき》が起る。
 絵のような時代のついたこの御殿の一間に、ただひとり、歌を思うているとばかり思うていると、今の軽い咳。軽いというよりは、病人を暗示するような咳によって見ると、次の座敷に人がいる。
 二三度、軽く咳入って、それから静かな寝返り。どうしても病める者の気配《けはい》としか思えない。
 それだけで、また、ひっそりと元に返ったけれども、歌を思うには、少しさわりになったと見えて、
「伊津丸《いつまる》、寒くはない?」
「いいえ――」
 かすかながら返事がある。それは果して病人である上に、幼い人であるらしい。
 その時、夫人は、脇息《きょうそく》のように肱《ひじ》を置いていた経机へ、正面に向き直りましたから、今まで蔭になっていた床の間の画像が、ありありと見え出してきました。
 床の間には肩衣《かたぎぬ》をした武将の像が一つ、錦襴《きんらん》の表装の中に、颯爽《さっそう》たる英姿を現わしている。
 その肩衣も至って古風で、髪も容《かたち》もおのずから、それに準じているのが、威あって猛《たけ》からずという武将の面影《おもかげ》が、さわやかに現わされているうちに、何としてか抑え難い痛々しさが、画像の上に流れていることを如何《いかん》ともし難いように見える。
 よく見ると、肩衣の武将の定紋《じょうもん》も同じく桔梗になっている。それは誰しも見覚えのありそうな武将の面影ではある。織田信長にしては面長《おもなが》な、太閤秀吉としては大柄な、浅井長政にしては鬚髯《しゅぜん》がいかめし過ぎる。
 そうだ、桔梗の紋が示している通り、それは加藤肥後守清正である。
 世の常の立烏帽子《たてえぼし》の大兜《おおかぶと》に、鎧《よろい》、陣羽織、題目の旗をさして片鎌鎗という道具立てが無いだけに、故実が一層はっきりして、古色が由緒の正しいことを語り、人相に誇張のないところ、これは清正在世の頃、侍臣手島新十郎が写した清正像にしっくりと合致する。
 その画像の前には具足櫃《ぐそくびつ》があって、それと釣合いを取って刀架《かたなかけ》がある。長押《なげし》には鎗《やり》がある。薙刀《なぎなた》がある。床の間から襖にそうて堆《うずたか》く本箱が並んでいる。
 そこで、再び歌を思うことに気分を転じようとつとめる途端、ふと何かの気配を感じて、縁に沿うた連子窓《れんじまど》を見ました。そこに何やらの虫が羽ばたきをしている。その虫の音ではない、別に廊下でミシリという音がしたから――
「誰じゃ」
 手にしかけた筆の軸を置いて咎《とが》めた夫人の声に、凜《りん》とした響きがある。
 同時に、ちらと長押の上を見やったところには、薙刀がある。
「誰じゃ、それへ見えたのは」
 圧《おさ》えて、しごくような咎めに遭って、のっぴきならぬ手答えがあった。
「え、深夜のところをお邪魔を致しまして、まことに相済みませんことでございます」
 いやに、しらちゃけた返事が、何ともいえないいやなすさまじさを与える。
「え、誰じゃ、何しに来ました」
 さすがの夫人も、最初の凜とした声の冴《さ》えを失って、一時は、度を失った狼狽《ろうばい》ぶりも見えたようです。
「御免下さいまし、御免下さいまし」
「おお、そちは曲者《くせもの》な、ちょっともその障子をあけることはなりませぬぞ」
「はい」
「無礼をすると許しませぬぞ、何ぞ用事があらば、それにて申してごらん」
「え、え、別に用事といって上った次第ではございませんが……またこの通り丁寧に御挨拶を申し上げてるんでございますから、決して御無礼なんぞを致すつもりもございません」
「深夜人の住居をおかす、それが無礼でなくて何であります」
「え、それは、その、憚《はばか》りながら、私共の商売だもんでございますから」
「あ、わかりました、そちは金銀が欲しいのだろう、金に困って、盗みに来たものだろう」
「え、左様なわけでもございません、それは時と場合によりましては、ずいぶん、お金が欲しくて、皆様のところへ頂戴に上ることもないではございませんが、今晩、このところへ参上致しましたのは、お金が欲しいためではございません、お金が欲しいくらいならば、この清洲《きよす》へは参りません、柿の木金助ではございませんが、あの名古屋のお城のてっぺんに上って、いただいて参ります」
「憎い奴じゃ、何のたくらみあって、これへ来ました、一刻も早く立去らねば、容赦はしませぬぞ」
 許すまじき気色《けしき》を、障子の外では存外、安く受取って、
「奥様……実のところは、ふとした縁で、銀杏加藤《ぎんなんかとう》の奥方様、つまり、この障子の内においでなさるあなた様が、尾張の名古屋の城下では、第一等の美しいお方でいらっしゃるというお噂《うわさ》を伺ったものでございますから、一度お目にかかって置きたいと存じました」
「お黙りなさい!」
 その時、夫人の手にあった薙刀《なぎなた》の刃風《はかぜ》がはやかったか、縁からころげ落ちて、植込へ飛び込んだがんりき[#「がんりき」に傍点]の逃げっぷりがはやかったか、とにかく、一たまりもなく、この色きちがいのやくざ者が敗亡して、消え失せてしまったことは事実です――
 あとでは静かに薙刀の鞘《さや》を拾って納め、再び長押《なげし》へかけ直した夫人の後ろ姿。その落ちついた態度と、背丈のすっきりした形を、鮮かに見ることができました。

         十二

 暫くしてから夫人は、
「伊津丸――もう寝ていますか」
 静かに隔ての襖《ふすま》を開いて見ると、中は薄ら明るい一間、屏風《びょうぶ》が立て廻してある。
「やっぱり、眠っていますね、今の騒ぎも知らないで、そんなによく眠れるのがよいのやら、悪いのやら」
 屏風の外に立って、内をのぞくような心持。
 全く、今のあれほどの突発事件を、一切知らぬほどに眠っていたとすれば、それは、たとえ病人ではあるにしても、それにしても、たよりが無さ過ぎるほど無神経ではある。ほんとにやる瀬ない、たよりない色を、さっと面《おもて》に浮べたが、また思い直したように、
「ねえ伊津丸、このごろ、人の話にきけば、信濃の国の白骨《はっこつ》の温泉というのが、たいそう病に利《き》くそうだから、わたしは、いっそ、お前をその白骨の温泉とやらへ連れて行って、骨が白くなるほど湯につけて上げたら、少しは利くかと思いました。お前その気がありますか。白骨の湯というのは、ずいぶん遠く、険しく、淋しいところにあるそうだけれど、お前さえ行く気なら、わたしも一
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