のが、
「五年前のことでは、わたしたちは一向に存じませんもの……」
「わたしは、噂《うわさ》にだけは聞いておりました」
「でも、名古屋にいらっしゃらないのなら、新しく別に選んでも、失礼にはなりますまいか知ら」
新進がようやく頭をもたげそうにするのを、醒ヶ井は、いっかなきかず、
「いけません、たとえ、どちらにいらっしゃろうとも、あの奥方が生きていらっしゃる以上は、他人に第一の席は、わたしが許しません、この醒ヶ井が許しません」
「皆さん」
この場合、初霜は新進を代表している形勢であると共に、新進を教育せねばならぬ責めも感じているように、多勢の方へ向き直って、
「醒ヶ井様が、ああ、おっしゃるのも御無理はございません、それは、あなた方のうちにはお聞きにならない方もあるかも知れませんが、銀杏加藤の奥方が、名古屋第一の美人でいらっしゃるということは、醒ヶ井様お一人の御了簡《ごりょうけん》ではございませんからね。かく申すわたしだって、あなた……少しも異存は無いのでございます。男を定めるのは男かも知れませんが、女を知るのは、やっぱり女でなければなりませんからね。いかなる美人でも、十人の女が見て、十人いいというのはありません、ところが、あの奥方ばかりは、女が見て非が打てないのでございます。賞《ほ》めて見ても美しい、嫉《ねた》んで見ても美しい、そこで、もう一般の輿論《よろん》が定まっているんでございますね。ですけれども、繰返して申します通り、それは五年も前に、わたしたちがこしらえた番附面を、もう刷り直してもいい時分ですから――それにあの奥方は、この地にはおすまいになっていらっしゃらないのだし、お年も、もう、たしか四十を越していらっしゃるはずだから……」
「いいえ、年は標準になりませんよ」
初霜の、充分に斟酌《しんしゃく》のある理解ぶりにも満足しない醒ヶ井は、
「わたしは、四十になっても、五十になっても、本当の美人の美というものは、衰えるものじゃないと思います、年によって盛衰のあるのは、売り物の花だけでしょう、教養の高い美は、いくつになっても衰えは致しません」
「でも、醒ヶ井様は、五年以来、あの奥方の御消息を、御存じないとおっしゃってじゃありませんか」
「それは存じませんけれど、存じておりましても、存じておりませんでも、美しいものは、美しいに相違ございません」
「そうおっしゃれば、それに違いはございませんけれど、それほどまでに御贔屓《ごひいき》をあそばすなら、せめて、あの方のこのごろの御消息ぐらいは御存じになっておいでになっても、罰《ばち》は当りますまいと存じます」
「城下にはいらっしゃらないのですか」
「ええ」
「では、犬山に?」
「いいえ……清洲《きよす》のお屋敷へお引籠《ひきこも》りになってから、もう二年越し、どちらへも、ちょっとも外出はなさらないそうでございます」
といって、それからひとしきり、その五年前に、名古屋一等の美人だという極《きわ》めのついている銀杏加藤の奥方の身の上話になりました。
前に言った通り、この席には、銀杏加藤の奥方の身の上について、予備知識を持っている若手も多いことでしたから、勢い、それは最初の発端《ほったん》にまで遡《さかのぼ》っての一代記にならないわけにはゆきません。その話すところを聞いていると、この御城下に、加藤家というのは幾つもあり、東加藤だの、西加藤だの、或いは梅の木加藤だの、ゆずり葉加藤だのといって、いくつも加藤家があるけれど、この銀杏加藤は千四五百石の家柄で、知行高《ちぎょうだか》からいえばさほどではないが、家格はなかなか高い方であるとのこと――でもその家柄は、奥方のほうの家格に比べると、遥《はる》かに及ばないということ。
奥方は名立《なだ》たる美人で、賢明の聞えが高いのに、当主は凡物で、そうして愚図に近いこと――その凡物で、愚図に近い夫を、長い間、面倒を見て来た奥方の賢夫人ぶりに感心せぬ者はなかったということ。そうして十年の間、連添っているうちに、三人の子供を設けた。その三人の子供、男二人、女一人を、もうこれならばというまでに育て上げた時分、夫人は改めて夫の前に出て、
「もうこれで、家の血統のことも心配はなし、わたくしも、妻としての、一応のつとめを、あなたに捧げたつもりでございます、かねてのお約束の通り、ここで、わたくしにお暇《ひま》をいただかせて下さいませ――わたくしを、妻としてでなく、女としての自由をお許し下さいませ、結婚の際の御内約を今日、お許し下さるように」
といって、ようやく加藤家を去ってしまったのは、つい近年のこと。
銀杏加藤《ぎんなんかとう》の家を去って後に、この奥方は清洲《きよす》へ移って、広大な屋敷の中へ、質素な住居をたて、心利《こころき》いた二三の人を召使って、静かに引籠《ひきこも》っているということ。
これが、奥方が結婚最初からの約束でもあり、自分の理想でもあったらしく、そこに引籠って、その生活を楽しみ、仏学を究《きわ》め、和歌をたしなむことに、余念がないという。
主人へは、そのお気に入りの者で、賤《いや》しからぬ召使の女、それは主人が、かねて内々目をかけていた若い娘を推薦して置いて――事実上の円満離縁をテキパキと手際よくかたづけて、この新生活に入ってしまったのです。
それは上述の如く、結婚以前に、世継《よつぎ》が定まる機会を待って、この事あるべき充分の理解が届いていたから、当主も干渉を試むる余地がなく、かくて理想通りの――形をたれこめて、心を自由にする新生活が得られたわけです。さだめてお淋しいことでしょうという者もあれば、ほんとにお羨《うらや》ましい身分という者もある。
惜しいという者もあるし、惜しからずという者もある。
同じ隠退なら、尼寺にでも入りそうなものを、あの水々しさそのままで行いすまされようとなさるのはあぶない。
銀杏加藤の家ではない、実は夫人の生家の方が、加藤肥後守の、現代に於てはいちばん血統に近い家柄であるということは、誰も言うことらしい。
名古屋に加藤家も多いけれど、系図面から純粋に、最も由緒の正しい加藤肥後守の後裔《こうえい》は、あの銀杏加藤の奥方、ただいま問題の、名古屋第一のその当人の生家がそれだという評判は、この席の中にも熟してきました。
その時、急に、何か思い出したように、醒ヶ井が立ち上って、自分の部屋へ取って返したかと思うと、一枚の折本を手に持って、
「皆様、これを御覧下さい、五年前のその時の、これが問題の品定めでございます」
投げ出された一枚の大判の紙の折本になったのが、少なからず一座の興を集めたのを、初霜が早速受けて、披露にかかりました。
「むむ、これこれ、これを、あなた様がお持ちでしたら、もう少し早くこの場へお出し下さればよいのに」
「ついして、今まで忘れておりました」
真先に開いて一通りながめ渡した初霜は、改めてそれを新進の者に示し、
「皆様、よく御覧下さいませ、これが五年前の、名古屋美人の本格の品定めでございますよ」
「どうぞ、お見せ下さいまし」
金魚が餌《えさ》に集まるように、この一枚の番附にすべての興が集まって、自然、当座の批評だの、軽い意味での揚足取りだの、岡焼半分のゴシップだのというものが、遠慮なく飛び出して、選挙のことも、改定のことも閑却され、ここ暫《しばら》く、創作の興味が、旧作の復習に圧倒された形です。
そうして、この番附面の極印、やはり銀杏加藤の奥方が日下開山《ひのしたかいさん》の地位――その点だけにはすべての姦《かしま》しさを沈黙させ、問題はそれ以下に於て沸騰する。ことに今晩、問題に上ったのは、大抵限られたる範囲の武家屋敷の間にのみ偏重されがちであったのに、この旧番附は、市井郊外までかなり公平に割振られてあることが、よけい、一座に批評の余地を与えたり、知識の範囲を広めたりするものですから、一旦しらけ渡った席を、この一物がまた熱狂的にしてしまいました。
ここは動かないところでしょうが、これはどうか知ら、あの方をこんなところへ持って来るということはありません、選者のおべっか[#「おべっか」に傍点]でしょう、それにあの方がこんなに下げられていてはおかわいそうよ、このお方わたしは存じ上げません、江戸表においで? え、おなくなりになりましたか、それはそれは――というようなあげつらいから急に声を落して、まあ、春花楼のお鯉がこんなところに――西川の力寿、あれは京者ではありませんか、徳旭の三吉――礼鶴の千代――汚《けが》らわしい、こんな遊女風情が……
そこで、結着はこれを基礎として、新たに修正し、遊女売女のたぐいは削除して、権威ある新番附を編成しようということに、動議がまとまったらしい。
その修正委員も、書記長も、指名されたり選挙されたりして、おのおの一方ならぬ意気込みでありました。
つまり、名古屋は美人の本場であって、ここで推薦された第一は、天下の第一流であり、ここの幕内は、日本国中の幕の内であり得る資格が充分だとの自負心を以て、慎重に査定を加えた上に、今宵、この場限りの品さだめでなく、広く天下に向って公表しても恥かしくないものを作り出そうとの異常なる興味が、一座を昂奮させてしまったものらしい。
そこで、その夜のうちに、あらましの修正案を、別に一枚の紙に認《したた》めて、旧番附と並べて、それを部屋の長押《なげし》にはり[#「はり」に傍点]つけて置いて、かなりの夜更けに、おのおのが十二分の興を尽して、おのおのの部屋に帰って熟睡の枕につきました。
十
その翌朝、これらの連中がようやく起き上って、お化粧にかかろうとする時分に、意外の警報が伝わりました。
「皆様のお部屋には、別に変ったことはございませんか」
当番の老卒が触れて廻ることが、少なからず朝の空気を動揺させる。
「何でございますか」
「今朝、その、お花畑の様子がどうも変だものですから、それを伝って行って見ますと、埋御門《うずみごもん》の塀の屋根の瓦が少しおかしいと思われました。といって階段《きぎはし》にも、締りにも、中台にも、異常があるのではございませんが、南波止場《みなみはとば》のところの猪牙《ちょき》に動きがあるようですから、引返して、御殿の方と、それからお花畑を通って迎涼閣まで調べて見ましたが、なんとなく怪しいと思われる点がないではありませんが、そうかといって、どこと一つ壊れた箇所は無し、何一つといって紛失したものもありませんが、長局《ながつぼね》の方はいかがですか、何か変った事はございませんでしたか、念のためにひとつお調べ下されたい」
宿直の老卒から、かく申し入れられて、それではという気になりました。しかし、単に駄目を押すだけのことで、異常があれば、こうして他から念を押されるまでもなく、おのおのの身辺に敏感なはずの奥女中たちが、とうに気のついていないはずはありません。ですから、ただせっかくの調査に対しての申しわけだけに、おのおの、持場持場、自分所有の品々について吟味をしてみたけれども、なんら怪しむべきものを発見しませんでしたから、初霜が代表して、
「御苦労さまでございます、長局の方には、一向に異常がございません。どこといっていたんだところもなければ、誰の一品といって、失せたものもございませんそうで……」
そこで断言して、ねぎらいかえそうとした時に、末のはしためが一人、後《おく》ればせに、ここへ駈けつけて、
「あの――昨晩、皆様が長押《なげし》へお貼りになった品定めの番附が見えないようでございますが……」
なるほど、昨晩あれほどの興味を集めた産物、長押へ掲げてあの席の止《とど》めをさし、そうして置いて一同が揃って寝に就いたはず。
昨晩のうち、あれに手をつけた者がないとすれば、今朝に至って、誰か気を利《き》かして剥《は》がしておいたものか。とにかく、事はたった一枚と二枚の紙のことではあるけれど、この場合、一応の調査を試みないわけにはゆかない事どもです。
だが、だれかれとたずね廻っても、一
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