いよ、事実、三州からこっちの方へかけては、大きな凧が流行《はや》っているし、岡山の幸吉ゆずりの工夫者もいるという話だからなあ」
「ですけれど、凧に乗って、金の鯱を盗もうなんかと、そいつぁ、ちっと……かけねがあり過ぎやしませんかね」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、貴様には、そんな芸当はできないか。凧に乗らないまでも何とかして、あの金の鯱に食いついてみてえというような了簡《りょうけん》は起らないか。今いう通り見ているだけではいかに金の鯱でも腹はくちく[#「くちく」に傍点]ならねえ、懐ろも温かくはなるまい」
「は、は、は、は」
がんりき[#「がんりき」に傍点]が遠慮なく、高笑いをしてしまったから、五十嵐甲子男が、
「何がおかしいのだ」
「だって、先生、あれこそ、ほんとうに高根の花でござんすよ」
「貴様には、手が出せないというのか」
「エエ、あればっかりは手が届きませんねえ」
「いよいよ意気地のない奴だ、柿の木金助の爪の垢《あか》でも煎《せん》じて呑むがいい」
「旦那、そりゃ今いう通り、柿の木泥棒のことは作り話ですよ、そりゃあ、柿の木泥棒とかなんとかいう奴があるにはあったんでしょうがね、そいつへ持って行って、誰かが弓張月をくっつけたんですね。そんな作り話を引合いに、がんりき[#「がんりき」に傍点]のねぶみを比較していただいちゃあ、迷惑千万でございますね」
「三田の薩摩屋敷には、慶長元和、太閤伝来の大分銅《だいふんどう》を目にかけて、そいつを手に入れようと江戸城の本丸へ忍びこんだ奴がいる、できてもできなくても、盗人冥利《ぬすっとみょうり》に、そこまで野心を起すところがエライ。貴様なんぞは、金の鯱を拝ませると、見ただけで眼がつぶれただけならいいが、腰まで抜けてしまいやがった」
「けしかけちゃいけません、旦那」
「けしかけたって、抜けた腰が立つ奴でもあるまい、まあ腰抜けついでに、見るだけでももう少し丹念に金の鯱を見ておけ。どうだ、朝日にかがやいて、いよいよ光り出してきたぞ、まぶしいなあ。初雪やこれが塩なら大儲《おおもう》け――という発句《ほっく》を作った奴があるが、あの鯱なんぞは、全部が本物だから大したものじゃないか、がんりき[#「がんりき」に傍点]」
「ほんとうにムクでござんすかねえ。ムクは評判だけで、実はメッキだってえじゃありませんか」
「ばかを言え、南の方の奴は高さが八尺一寸、まわりが六尺五寸、鱗《うろこ》が一枚七寸五分から六寸五分……耳が一尺七寸五分といった調子で、それに準じて、一枚としてムクを使ってないのはない」
「本当にムクなら大したものでござんすが、割ってみなけりゃ何とも言えますまい、金ムクと思って、中からあんこ[#「あんこ」に傍点]が出たりなんぞしちゃあ、あーんのことだ」
「つまらない洒落《しゃれ》を言うな、あれはみんな本物だ」
「どうですかね、あなただって、見本を一枚取寄せて、削って御覧なすったわけでもござんすまい。それにあの通り、金網が張ってあるじゃござりませんか」
「あれは、例の柿の木金助が取りに行くようになってから、あの金網を張ることにしたのだ」
「へん、そうじゃござんすまい、鳩が巣を食ったり、野火の燃えさしをくわえて来たりなんぞするものですから、火事をでかすとあぶないから、そこであの金網を張ったんだと、こちとらは聞いておりましたよ。まあ、何と先生たちがおっしゃいましても、がんりき[#「がんりき」に傍点]はやりませんよ、はい、腰ぬけとおさげすみになっても、苦しうございません」
「意気地なしめ!」
「へ、へ、へ、その辺は意気地なしで納まっていた方が無事でございますが、納まっていられねえところにがんりき[#「がんりき」に傍点]の持って生れた病というやつがございますから、その方でたんのうを致したいと、こう考えています。金の鯱はもう満腹でございますが、実のところ、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、そのかたかたのほうにはかつえ[#「かつえ」に傍点]きっておりますよ。先生方は先生方で、何ぞというとがんりき[#「がんりき」に傍点]を煽《おだ》ててはダシに使おうとなさるが、がんちゃん[#「がんちゃん」に傍点]の方はまたがんちゃん[#「がんちゃん」に傍点]の方で、旦那方の御用の裏を行って、いいことをしてみてえという野心があればこそでござんすな。再三申し上げる通り、金の鯱は、こうして目で見ていてさえげんなりしてしまっていますから、どうぞおしまい下さってお慈悲にひとつ、そのかたかたのほうで、がんりき[#「がんりき」に傍点]のお歯に合うところを一つ呼んでいただきたいもんで……実はお恥かしい話ながら、こう見えてもがんりき[#「がんりき」に傍点]は、江戸方面は別と致しまして、京大阪のこってりしたのにいささか食い飽きの形ですが、まだその、名古屋大根の水ッぽいところを、一口も賞翫《しょうがん》したことがねえんでございます、宮重大根《みやしげだいこん》の太った白いところの風味は、また格別だってえ話じゃありませんか。ああ涎《よだれ》が……」
「たわけ者!」
五十嵐から小突きまわされて、がんりき[#「がんりき」に傍点]が、
「へ、へ、へ、旦那方は女の事と言いますてえと、よく、がんりき[#「がんりき」に傍点]を小突き廻したりなんぞなさるが、失礼ながら、旦那方だって聖人様ではござんすまい、昨晩も熱田の宿で聞いていりゃあ、ずいぶん、隅には置けねえお話を手放しでなさりやす……曲亭の文にも、人ノ家婦ニ姦淫《かんいん》スルコト他邦ニモアリトイエドモ、コノ地最モ甚《はなは》ダシ、とあるとか、名古屋ノ女、顔色ハ美ナルモ腰ハ大イニ太シ、とかなんとか、名古屋の女のこってりした風味をそれとなく、がんりき[#「がんりき」に傍点]の前でにおわして下さるなんぞはいけませんよ、お城の金の鯱を見せてけしかけなさるよりも、まだよっぽど罪が深いんでござんすぜ」
こんなふてくされを言いながら、二度目の目つぶしを用心して、がんりき[#「がんりき」に傍点]が、素早く身をかわしてしまう。
九
この晩、二の丸御殿の長局《ながつぼね》で、奥女中たちがかしましい。
誰いうとなく、この名古屋城の城内と城下とを通じて、第一等の美人は、さあ、どなたでしょう――今晩ここで、その極《きわ》めをつけてしまおうではありませんか。
ようござんしょう、至極賛成でございますね。ごらんなさい、雨が降って参りましたよ、あつらえ向きじゃありませんか、雨夜《あまよ》の品さだめ――
雨は、この時にはじめて降り出したのではありません、前津小林《まえつこばやし》の方から降り出して来て、宵の口から、もう御深井《みふかい》の大堀をぬらしているのです。
そうですね、いつぞやも御天守の初重《しょじゅう》で、お宿直《とのい》の方々が、その品さだめで鶏《とり》が啼《な》いてしまったそうです。今晩は夜が明けてもかまいませんから、その極《きわ》めをつけておいて、後日このことでは、誰にも口を開かせないようにしようではありませんか。
「賛成、賛成、大賛成ですね」
そこで、奥女中たちの選挙がはじまる。
城内と城下とを通じての美しいほうでの第一人者――という名題《なだい》にはなっているが、ここでは、どうしても城下は眼中に置かれません。
城下の町人のうちでも、それといえば誰も頷《うなず》くほどの者がいくらもあるに相違ないが、ここでは勢い、どうしても城内の、上は家老格から、下は軽輩の家族のみに限られるようになって、選定の標準が偏してくるのは、是非もないことでしょう。
つまり、最初は、名古屋城の城内はもとより、城下町|外《はず》れに到るまで、家格と、経歴とを論ぜず、美[#「美」に傍点]の一点張りで、普通選挙を行うつもりだったのでしょうが、おのずから眼界の限られている人たちの選挙ですから、城内の、それも自分たちのほとんど身の廻りの範囲にだけしか、取材が及ばないのも、やむを得ないことでしょう。
権田原《ごんだわら》の奥方は、美人でいらっしゃるには相違ないが、権があり過ぎて親しみがない。村松のお姫様は、行末立派なものにおなりなさるに相違ないが、お年が十五ではねえ――鉄砲頭磯谷矢右衛門殿の女房は、廓《くるわ》にもないという噂《うわさ》ですけれど、少し下品じゃありませんか。お船方の綾居殿はキリリとしておいでなさるが、額つきが横から見るといけませんよ。お旗奉行の御内儀は、お色が黒い。お色の黒いのが悪いとは言わないけれど、浅黒いのにも、とてもイキなのがありますけれど、第一等の標準に置くには、やっぱり、色の白いということを条件に置かなければなりませんわね――そういえば、あの平井殿のお娘御も、小麦肌でいらっしゃる――丸ぼちゃと、瓜実《うりざね》と、どちらを取りましょう。つやつやした髪の毛では、あの塩川の奥様が第一等だそうですけれど、生え際に難がありますわね。若宮八幡の宮司《ぐうじ》の娘さん、とてもすっきりしているそうですが、お侠《きゃん》で、人見知りをしないそうです。大林寺の裏方は、もうちょっと背が高くなければいけません……
「皆さん、無駄だから、そんなついえな評定はもうおやめなさい。美人の相場だって、そう一年や二年に変るものじゃありませんよ。聖人というものは千年に一度、天成の英雄と、美人とやらは、百年に一人か二人――しか生れるものじゃありませんから、相場はきまったものでございますよ」
最初から、若い者たちの、やかましい品定めを冷淡にあしらって、何とも言わなかった中老の醒《さめ》ヶ井《い》が、はてしのない水かけ論に、我慢のなり難い言葉で、こう言い出しました。
「おや、醒ヶ井様、何をおっしゃいましたか」
「天成の英雄と、美人というものは、百年に一人か二人――しか生れるものじゃありませんから、一年や二年に相場が狂うはずはありませんね、ですから、二と三は皆様の御随意にお選びなさい、一は動かすことはなりませんよ」
「一は動かせないとおっしゃるのですか」
「つまり、名古屋第一等の美人の極めは疾《と》うの昔、五年前に済んでいますからね」
醒ヶ井の権高い言いがかりと、五年前という言葉が、せっかくの一座の意気込みを、くじいてしまいました。
「それは、どなたでございましたか知ら」
「銀杏加藤《ぎんなんかとう》の奥方が、名古屋第一ということに極めがついていますのよ、五年前――ちょうど、こんな夜さりの品定めで、皆さんの評定がそこに定まって、どなたも異存がありませんでした……」
「でも、それは、五年前のお話じゃありませんか……」
と、初霜というのが少しばかり張り合う。醒ヶ井は決して負けてはいない。
「だから、言うじゃありませんか、第一の位は、そう一年や二年に変るものではないと。わたしから言わせると、やっぱり今日でも、銀杏加藤の奥方につづく二と三はありますまいね。でも、それではあんまり興が無いから、仮りに二と三をつづけることにして、お選びなさい」
そこで、初霜もだまってはいない。
「それはそうかも知れません。ですけれども、それはやっぱり五年前の番附で、あれから新顔が出ないとも限りませんもの。よし出ないにしたところで、銀杏加藤《ぎんなんかとう》の奥方様は、もうこの名古屋にはいらっしゃいません」
「おや――あの奥方は名古屋にいらっしゃらない? でも、御良人も、お屋敷も、変りはないのに、江戸への御出府や、一時の道中は、人別《にんべつ》の数には入りませんよ」
「ええ、名古屋にもいらっしゃいません、お江戸へもおいでになっていらっしゃるのではございません」
「では、お亡くなりになったの?」
「いいえ……」
「どうしたというんでしょうねえ」
「ホホホホ、醒《さめ》ヶ井《い》様《さま》、あなたは銀杏加藤の奥方に、それほど御贔屓《ごひいき》でいらっしゃるくせに、そのお行方《ゆくえ》さえ御存じないの……だから、五年前のことは当てにならないと申しました」
今度は、初霜が逆襲気味で、醒ヶ井の咽喉首《のどくび》を抑えていると、それを機会《しお》にして若い
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