お友達の弁信さん――面白《おもしろ》いですね、お雪ちゃんほどの娘さんが、まずたよりをなさろうというのに、故郷《ふるさと》や、親や、兄弟のことをおっしゃらず、まっ先[#「まっ先」に傍点]にお友達のことをおっしゃる。そのお友達こそ、ずいぶんのあやかり者だと思います。しかもそれが女のお友達じゃありませんね、弁信さん――の名が示すところによれば、男の方ですね、男もしかしどうやら俗界とは離れたような呼び名。なんにしても、まっ先に、あなたから呼びかけられる弁信さんは果報です。さだめて綺麗《きれい》なお寺小姓か、若い美僧で、忘れられない、あなたの昔なじみなんでしょう」
「ええ、全く、わたし、世の中に弁信さんほど、よい人は無いと思いますわ」
と、お雪が言い出したものだから、北原賢次が再び度胆《どぎも》をぬかれてしまいました。
「へえ、弁信さんてのは、そんなに、いい人なんですか」
「全く、この世の中に、あんないい人はありません」
「驚きましたねえ」
北原の方がかえっててばなしになって、驚いてしまったが、お雪はいっこう平気で、
「ですから、わたし、毎日毎日、隙《ひま》さえあれば弁信さんに宛てて手紙を書いていますの。手紙ばっかり書いたって、出すたよりは無いでしょう、ですから、書いたきりの手紙がもう、こんなに高くなっていますのよ。でもいくら書いても書き足りないものですから、今でも、書く事のなくなるのを心配するよりは、こんなに毎日書いて、せっかく用意して来た紙がなくなりはしないかと、そればっかり心配になって仕方がありません」
「へえ――驚きましたね」
北原賢次は三たび手放しで、あっけに取られました。
しかし、北原はそだちがいいから、下品な冷やかしを打込む男ではありません。
「それはそうとして、お雪ちゃん、鳩の方はとにかく、この名古屋行の分を貸して差上げましょう、この鳩は、尾張の名古屋までしか行かない鳩だということを、忘れてはいけませんよ」
「それはただいま承りました」
「しからば、その弁信さんというのは、ドコにおいでなさるのですか」
「それは、わかりませんけれど……」
「その居所のわからない人のたよりを、名古屋へしか行かない言伝《ことづて》に頼んだところで、無益じゃありませんか」
「それでも、弁信さんは、しょっちゅう旅をしつづけている人ですから、もしかして、途中でこの鳩にでくわさないとも限りませんわ」
「心細いような、大胆なようなおたよりですね、もしかしての範囲があんまり広いのに、鳩の行程が定まり過ぎています」
「それでもかまいません、もしかして、わたしからの弁信さんへの手紙が、途中で、ほかの人に渡っても、その人が弁信さんへ届けて下さるかも知れませんもの」
「かも知れないことを、たよりになさるなら、いっそ、この鳩が途中下車した時に、ちょうど旅をして休んでいた弁信さんとやらの頭の上へ止まるかも知れません、と言ったらいかがです」
「そんなことも無いとはいえませんのよ」
「いよいよたよりないことですね、ほとんど当てのない海中へ、石を投げ込んで鯛を取ろうというような目あてですね」
「でも弁信さんは別物よ、あの人は、とても勘のいい人ですから、この鳩が、わたしからのたよりを持っていることを、頭の上を飛んで行く音で、ちゃんと聞きわけるかも知れませんのよ」
「ははあ、超人間の働きですねえ、第一、頭の上で飛ぶ音を聞きわけるというのが振《ふる》っていますね――そのくらいなら、眼をあげて見分けてもらった方がいいじゃありませんか」
「ところがね、弁信さんは眼が見えないんですよ、北原さん」
「え」
「あの人は、眼が見えない代りに、勘がおそろしくいいんですから、わたしのたよりを持った鳩と行逢えば、その羽の音で、きっとさとってしまいますわ」
「驚きましたね、いかに勘が鋭敏だといって、それが本当なら、まさしく超人間です」
北原が、やや茶化し気分のいい気持で相手になっていると、お雪ちゃんはいよいよ真剣になって、急に思いついたように、
「あ、そうそう、そういう場合は、弁信さんよりも茂ちゃんだと一層いいわ、あの子ならこの鳩を呼び寄せてしまいます」
「何ですってお雪ちゃん」
「あの茂ちゃんて子が、もし弁信さんと一緒なら占《し》めたものよ」
「茂ちゃんとは、何者です」
「可愛ゆい子で、弁信さんと大のなかよしですが、もし二人が一緒にいてくれると、弁信さんがこの鳩を勘でかんづいて、茂ちゃんに耳うちをすると、茂ちゃんが口笛を吹いて、この鳩を呼びとめてしまいます」
「なんだか、お雪ちゃんの話は、捜神記《そうじんき》を夢で見ているようで、我々には、いっこう取りとまりがないが……」
「いいえ、茂ちゃんていう子は、それは不思議な子よ、どんな荒い獣でも、空を飛ぶ鳥でも、地に這《は》う虫でも、みんな呼び寄せて、なつけてお友達にしてしまうんです、そのくせ、人間に逢っては、ずいぶん臆病なんですけれども、人間のほかのものなら、何でも怖いということを知りませんね、自分が怖がらないから、先方で自然にお友達になって来るのです――うちにいる時も、狼を呼びよせて、しょっちゅうお友達にして、自分の寝る縁の下へ住まわせて、御飯を分けて食べさせていましたが、そのくせ、わたしたちにそれが見つかりゃしないかと、ビクビクしていましたわ。狼よりわたしたちが怖いなんて、ずいぶん変った子でした」
「ほんとうにお雪ちゃんの周囲《まわり》には、変りものばかり集まるんですね」
「つき合ってみれば、ちっとも変っていないんですけれど、聞いてみると、とてもよりつけない人たちのように思われましょう」
「何しろ、その弁信さんと言い、茂ちゃんと言い、人間界の代物《しろもの》ではありませんな……それらを友達としているお雪ちゃん自身も、かなり問題の女ですね」
「そう見えますか知ら」
「見えますとも」
「見えないはずなんですがね、わたしこそ、世間の娘さんと全く同じことよ、心立ては悪かないけれど、そのくせ意気地なしで、自分には何の力もないのに、人様の面倒を見て上げたかったり、頼まれるといやと言えなくなって、あとでよけいな心配をしたり、好きになると、どうしても離れられなくなったり、からきし意気地なしの、お人よしなんですけれど……」
「どうして、そんなどころじゃありません、お雪ちゃんぐらいよく出来た娘さんは、全く珍しいと皆が言っています」
「この山の中では、珍しいんでしょう」
「ははは、お雪ちゃん、なかなかそらさない、そこがいいところだ」
「全くわたしはお人よしね、自分でもそう思いますけれど、強い人にはなかなかなれませんからあきらめています」
「ところがね、その人のいいところに、何ともいえぬつよみがあるのですよ、いわば犯《おか》し難いところがあるんです。たとえば、この山の中の冬ごもりでしょう、ここに集まっている者は、我々はじめ、いずれも、一かどのくせ[#「くせ」に傍点]者でしょう、御安心なさい、自分からくせ[#「くせ」に傍点]者という奴に、たいしたくせ[#「くせ」に傍点]者はありませんからね、それはそうとしても、いずれも寄り集まりの身性知《みじょうし》らずの人間共でしょう、その中で、たった一人の、紅一点たるお雪ちゃんに対して、野心を起さないものが無いとは誰も断言できないでしょう。ところが今日まで、今後もそうでしょうが、お雪ちゃんを渇仰《かつごう》するものはあるけれども、ついぞ手出しをしようとした奴が無い、そこにお雪ちゃんの潔白と、純粋から来るつよみがあるのです」
「ちっとも存じませんでした、わたしにそんな強味があることを」
「ちっとも存じないところが強味なんですよ、これを存じていてごらんなさい、ツンと取りすましてみたところで、隙《すき》はありますよ……とにかく我々も、ずいぶん世間を渡っている人間ではありますが、それでも、お雪ちゃんのような女性を見ることは、そんなに多くはありません。宝玉というものは、やっぱり深山へ来なけりゃ掘り出せないのかも知れません」
「北原さんも、ずいぶん、お世辞がお上手なんですね」
「ええ、これでも、女では相当に苦労をした覚えがあるんですから、相当に女を見る目もあるにはあるべきでしょう。ところで、お雪ちゃん、あなたの珍重すべき所以《ゆえん》を信じますと共に、その危険についても看取しないわけにはいきません、賞《ほ》めているばかりが親切じゃありませんからね――あなたのお年頃、そうして、自己の有する美質を、人に示して惜しまないところには、また非常なる危険がひそんでいることをさとらなければなりません、そこをひとつ、出過ぎた申し分ですが、わたしから忠告をさせていただきたいものです」
「どうぞ、御遠慮なくおっしゃって下さい、何と言われても、為めになることをおっしゃっていただく分には、決しておこりませんから」
「では申し上げましょうかね。人様のことを申し上げるには、自分の懺悔《ざんげ》からはじめなければなりません。まあ、お茶を一つ……」
話が思いの外はずんで、賢次がお茶をいれて話しこむ気になると、お雪も身を入れて聞く気になりました。
今や賢次が、わが身の懺悔話からはじめて、おもむろにお雪ちゃんの為めになる意見話の緒《いとぐち》を切ろうとした途端に、この家のいずれの一角からか、飄々《ひょうひょう》として短笛の音が落ちて来ました。
「あ、尺八」
十五
「あ、尺八ですね」
せっかく、語り出でようとする賢次、せっかく、それに聞き入ろうとしたお雪、二人の熟した気分を、この尺八が折りました。
北原も、話頭を折って、この尺八の音に聞き入る。お雪もまた、それを聞くと何となしに、そわそわとなって落ちつき兼ねた模様も見えます。
じっと暫《しばら》く耳をすましていた北原、
「お雪ちゃん、あれはどなたですか」
「あれですか……」
「あの尺八を吹いているのは、どなたですか、あなた御存じでしょう」
「ええ」
「どなたですか」
「あれはね……」
「我々の間では……最初は、我々仲間の者がやるのだろうと気にもとめておりませんでしたが、中頃から、不思議がるようになりました。君かい、いやおれではない、では誰だ、と論議の末が、ついにわからなくなったと共に、あの笛の音も暫くばったりとやんだものです。それがまた、深夜でも、白昼でも、意外な時に、意外に起るものですから、それから問題になりました。いろいろ物色してみたが、結局、お雪ちゃんの連れの方、そのほかにはあの笛の主が無いということになってみると、ますます問題が問題を生みましたのですよ」
「どうも済みません……」
「いや、済まないということではないですよ、つまりね、我々こうして、計らずも山中に棟を同じうして住んでいますとね、呉越同舟《ごえつどうしゅう》といったようなものでしょう、ましておたがいに、今日まで見ず知らずでこそあれ、敵同士《かたきどうし》じゃないんですからね。無論、呉越どころじゃありません、同海同胞です、みんなこうして一つ棟の下に、一つ湯槽《ゆぶね》の中で、裸にもなり合う仲になっているのですから、兄弟同様の親しみが湧いて来るのも無理がありません。ところで、たった一人が、この不思議な因縁《いんねん》の同舟の中に、我々と全く没交渉なお方が一人、存在なさるということは物足りないではありませんか。時々は噂《うわさ》をしますが、まだ一人として、我々のうちでお目にかかったものはないのです、それがすなわち、あなたのお連れの御病人の方なんです――しかし、御大病でいらっしゃるから遠慮しておいた方がいいと、誰も、そのことを、あなたの前では申し上げなかったでしょう、ところがその御大病の方が、このごろは短笛――尺八ですな、あれをおやりになろうということですから、御病気も大分、およろしくなったのでしょう……と拙者はじめ思いました」
「ほんとうにおかげさまで、近頃は、めっきりよくなったようでございます」
「それでは、やはり、あの尺八は、あなたのお連れの御病人の方がお吹きになるのですね」
「そう、お尋ねを受ければ、左様でご
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