船所では、ちょうどそこに、主人の居合わされないことを残念に思いました。駒井甚三郎は七兵衛を置いて、それからまたここへ戻って来たには来たが、またフラリと立去ってしまったとのことです。
平沙《ひらさ》の浦の方へ潮を見に行ったか、天文台の方へ、観測に行ったか、どちらへも人を馳《は》せると共に、造船所の職工のおもなる者は、当所の陣屋へ来て見ますと、右のような次第で、乱入者も、マドロスも、影も形もありません。そこでまた、手分けをしてその行方《ゆくえ》を探しにかかりました。
とうとう夜になったが、行方が知れませんでした。
夜になると、駒井甚三郎が帰って来てその報告をきいて、安からぬことに思いました。
それは、この辺の土民にしてはやり過ぎである。誰か尻押しをしたものがあるのだろう、けしかけたものがあるだろう、黒幕にいるものがあるに相違ない、と感じさせられないわけにはゆきません。
そうしてみると、この地に来た自分の挙動に、注意しているものに二種類ある。一方は充分の好意と、信頼を以て、何かと助力を惜しまない人。一方は何か異端が来て、陰謀の企《くわだ》てをしているのではないかという疑惑と、その背後には、有力なる官辺の影と、迷信の力が無いではない。
このたびの事を機会として、その反動の側の勢力がはかって、不意に来たのだな。不意に来たとはいえ、この暴行には相当根拠がある、後ろだてがあるということを駒井がさとってしまって、この結末は相当面倒であり、手数がかかると思案しました。
そこへ帰って来たのは七兵衛です。
七兵衛は駒井の前へ、次の如く報告しました。
「これはなかなか大事《おおごと》でございます、マドロスさんとやらを奪い出したのは、この土地の村人の仕業《しわざ》ではございません。
あれは、この界隈きっての博徒の親分、洲崎のなにがし[#「なにがし」に傍点]という奴の子分共の仕業でございますぜ。それもまた、洲崎の親分だけがさせたのではありません、そのうしろには黒幕がありますぜ。
とにかく、殿様がこの土地へおいでになって、そもそもの初めから、嫌な眼で見ていた奴がございます。
それが、殿様が仕事をお進めになればなるほど、怪しい眼を光らせていたものでございます。
それにはお上役人の筋を引いているものもございます、土地の昔からの家柄の者もございます、お寺の信者や、神様の氏子、そのうしろには坊さんや神主が糸を引いているのもございます。それらが、殿様がおいでになった最初から変な眼で見てはいましたが、何しろ、駒井の殿様の以前の御身分が御身分ということを知っておりますものですから、うかと手出し、口出しをすることができませんで、今日まで引込んでおりました。
だが、殿様が全く見馴れない、聞き馴れない西洋流の仕事を、ドシドシおやりなさるのを見るにつけ、聞くにつけ、いよいよそれらの連中の業が煮えてたまらず、あれは切支丹だ、ヤソだ、国を取りに来る毛唐の廻し者のさせる謀叛《むほん》だ、ということが、殿様は御存じないかもしれないが、もう一部の間には、その疑いと、憎しみで充ち満ちておりました。
けれども、前申し上げる通り、殿様の以前の御身分が御身分であり、それに鉄砲の名人でいらっしゃること、造船所には心服している職工もあるし、大砲を据えつけてあるというようなことが、彼等を警戒せしめたのみではなく、表面上、まだこれぞという証拠を押えたわけではありません、そこで彼等は躍起となって、何か殿様の身辺から、アラを探そうと狙《ねら》っていたのですが、その網にひっかかったのがあのマドロスです。
先日逃げ出した時、あのマドロスが、あちらの縄張りの中で鶏を盗《と》ったとか、着物をかっぱらったとかいうことがあったそうです、それをとっこ[#「とっこ」に傍点]に取って、そうして今夕の狼藉《ろうぜき》が起ったのです。
ですから、あのマドロスはいわば人質で、どうも本当の目的は、駒井の殿様の方にあるようでございます。
殿様に向っては、直接《じか》に鋒を向けられないから、それでマドロスさんとやらを奪い取ってオトリにしようというのは、あの社会の奴等のよくやる手です。
え? あのマドロスさんとやらの行方ですか、それはちゃんと知っております、その洲崎の親分の家の土間にひっくくられているんでございます、それを明日は天神山へ連れ出して、そこで焼き殺すのだと、こう言っておりました。
ええ、それはあいつらのことですから、やりかねないことでございますよ。何しろメリケンの方の国では、文明国だなんぞと言いながら、黒ん坊をとっつかまえて、生きながら焼き殺すという話ですから、その伝でひとつ、あのマドロスを天神山で焼き殺してしまおうではないか。
なあに、毛唐の、切支丹の、ヤソの、日本の国を取りに来る廻し者の片割れだ、そのくらいにしてやったって、賞《ほ》められこそすれ、トガメが来るものか。
明日はやっつけてやれ、と、こんなことを、あの賭博打《ばくちうち》の子分共が口々に言っておりました。
だが殿様、どう御処分なさいますか、ここは充分考えどころでございますよ……」
と七兵衛が、ここまで語り来《きた》って駒井の様子を窺《うかが》うと、駒井の面《おもて》に、言わん方なき苦悶《くもん》の色が表われたのは事実です。
ほとんど、どうしようとの思案と、返辞とに窮してしまったらしい。マドロスを取返しにこちらから押しかければ、いわゆるなぐり込み[#「なぐり込み」に傍点]だ、いかに腹が立てばとて、駒井能登守ともあろうものが、天保水滸伝の向うを張って、博徒を相手のなぐり込みが、できるものか、できないものか。
だがまた、これをそのままにして置けば、みすみす頼りない外国の漂浪者を、無残なる私刑者の手に、見殺しにしなければならない、これをしもまた忍び得ることかどうか。
これを忍んでいれば、その次には大挙して、この陣屋と、造船所とを襲うに相違ない。たかの知れた博徒共を追払うは何のことはないとしても、彼等に口実を与えた以上は、ここに落着いて事業の進行は覚束ない。まかり間違えば、吾々一同の生命の危害の問題だ。
ああ、これは自分の思案に余るワイと、さすがの駒井甚三郎の面に、苦悶の色のいよいよ濃くなるのを隠すことができません。
それを見て七兵衛が、静かに膝を進ませて言いました、
「殿様、御心配なさいますな、向うはたかのしれた賭博打《ばくちうち》でございます、あれを駒井の殿様が、まともにお考えになっては困ります、まして、まともにお相手になった日には、あいつらと、その黒幕にいる人たちの思う壺でございます。
こんなのにはやっぱり裏をかいてやらなければなりません、いかがでございましょう、出過ぎた申し分でございますが、こうして参り合わせるも何かの御縁、この七兵衛にひとつ、お任せ下さいませんでしょうか」
と言われて、駒井が、苦悶の面をパッとあげて、改めて、七兵衛の頭から足の先までを見直しました。
今までは、単純なお使役の青梅在のお百姓とばかりあしらっていたこの男としては、意外千万な、大胆不敵の申し分である。
第一、これだけの報告を、いつ、どうして聞き出したかさえ大きな疑問であるのに、不肖ながらこの駒井にさえも、どうしていいか、さばきのつかぬこの差当っての大難関を、ポッと出の田舎者《いなかもの》のくせに、身に引受けてみようとは、なんという豪胆な言い分だろう、豪胆でなければ、向う見ずの極だ。
そこで駒井が、七兵衛に向って言いました、
「ふん、お前に何ぞよい知恵がありますか」
「はい、知恵というわけではございませんが、お殿様が私にお任せ下さりますならば、一番あいつらの鼻ッ端をくじいてやりたいと存じます。としましても、ポッと出の私一人の力で土地っ子の大親分とその一まきを相手に、正面から喧嘩が買えるものではございません。そうかといって、長い間たくらんでした仕事を扱いにはなりますまい。元はといえばそのマドロスさんとやらいうお人一人のこと。そこでそのマドロスさんを、あいつらの手にかけない先に、こっちの手でなくしてしまえば、向うは拍子抜けがしてしまい、また言いがかりの種子《たね》も無くなってしまう道理でございますから、こいつは一番先手に廻って、こっちの手で、あのマドロスさんとやらを無い者にしてしまったらいかがのものでございましょう。無い者にすると言いましても、決して生かしたり殺したりするのではございません、早い話が、今夜のうちにあのマドロスさんを盗み出してしまうんですね。盗み出して、だあれも気のつかないところへ隠して置くんでございますね。そうすりゃ、あいつらの意気組みも拍子抜けがしてしまいましょう。それから後は、それから後で、またうまくあやなす法もあろうというものです。いかがでしょう、この謀《はかりごと》は」
七兵衛に斯様《かよう》に建議をされたが、駒井甚三郎は、膝を打ってなるほどともなんとも言わない。深く考え込んだ後、
「ふん、それは最もよい計略かもしれないが、また最も行い難い仕事だ、第一、それらの無頼漢が覚悟の上で護る根拠地へ、今晩のうちに出向いて行って、それを首尾よく盗み出して来るほどの働き者がこの際、あるか、ないか、それを考えて見給え」
と駒井から、重々しく戒めるように言われたのを七兵衛は、軽く受け、
「はい、そこでございます、そこのところをひとつ、この七兵衛にお任せを願われないものでございましょうか、仕遂げた上でなければ口幅ったいことは申し上げられませんが、ともかくこの七兵衛にお任せ下されば、やれるだけはやってお目にかけようと存じます」
「うむ、お前の勇気には恐れ入ったが、それをお前に任せることは、お前をまたあのマドロスの運命にすることだ、いわば一つで済む犠牲を、二つにするようなものだ」
「わたくしの方は、どうなりましょうとも、決して殿様に御迷惑をおかけ申すようなことは致しません、もしおまかせがなければ、私も乗りかかった船でございますから、私の一了見で、ひとつ出かけてみたいと思いますから、見ぬふりをあそばしていただきたいものでございます」
そう言われて、駒井は全くこたえたように七兵衛の面《かお》に眼を注ぎました。
不思議の男だ。見かけはどう見直しても質朴《しつぼく》なお百姓に過ぎないこの男、義気だか、客気だか分らないが、飛んで火に入る勇気を十二分に持ち合わせている。
満身これ胆とはこういう男をいうのかしら……今こそお百姓の風をしているが、若い時分には長脇差の柄《つか》を握って、血の雨の中をくぐり歩いた男かも知れない。
ともかくも妙な場合に来合わせたものだ。
こういう男に限って、行くなと言ってもきっと行く、これはともかく任せてみるよりほかに仕方がない、と心を決めました。
六十六
清洲の山吹御殿の銀杏《ぎんなん》加藤の奥方の居間へ、不意に一人の珍客が訪れました。
「これはまあお珍しい、梶川さん、ようこそ」
と、例の居間で奥方から笑顔で迎えられたのは、この間岡崎市外の街道で、友人のために人を討ち果し、そして、お角の駕籠《かご》にあいのりして、鳴海の宿まで送られた美少年、梶川与之助でありました。
「これは奥方、不意に御静居をお驚かせ申して相済みません、伊津丸殿《いつまるどの》はおいででございますか」
「はい、伊津丸もおるにはおりますが、もう永いこと患《わずら》って、病の床に就いておりまする」
「それはそれは、存じませぬ事ゆえ、お見舞も致しませんで失礼いたしました」
「こちらへ引籠《ひきこも》りましてからは、どなたへもお知らせを致しませぬ、諸方からお見舞を頂くことをかえって恐れておりました」
「それにしても、同じく柳生殿の道場通いを致しました私にだけは、お知らせ下さらないことを恨みに存じます」
「そのことは何とも申しわけがござりませぬ、あれも常にあなたのことをお噂《うわさ》しておりましたから、今日おいでになったことを、どのくらい喜びますか」
「それでは、これから御病床へお見舞に上ってよろしうご
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