そうしてはおられぬのだ。倅《せがれ》とお松をこちらへ呼ぶのがよいか――どのみち、一度わしは、その沢井とやらへ行ってみようと考えているところなのだ」
「殿様が、あちらへお越し下さるのは勿体《もったい》のうございますが、二人をこちらへお呼び寄せになるのも容易ではございますまい、いずれ、江戸の御本邸へお帰りあそばす節に、お松に、若様をお連れ申して上げるように申し伝えたら、いかがなものでございましょう」
「いや、それが……わしは江戸へ落着くことはまずあるまいと思う」
「いいえ、そのうちには、晴れてお帰りになる日を、みんながお待ち申し上げているようでございます」
「よし、晴れて帰れるようになった日が来たとて、拙者は江戸では住めない、住みたくないのだ、といって、この地に永住するつもりもないのだ」
「では、また甲州へでもおいであそばしますか」
「いや、甲州へはなおさら――実は、そなたにも見てもらいたい、幸いに、これから造船所へ行ってみようと思うから、疲れたことでもあろうが、一緒に行かないか」
「はい、どちらへでもおともを致します」
「これから、ちょっと離れたところに、わしがこしらえた造船所がある、そこで船を製造しているのだ」
「船をおこしらえになっておいででございますか」
「うむ、その船も近々出来上るから、それで外国へ乗出してみようと思っている」
「それは大仕事でございますね、外国とおっしゃるのは、ドチラでございますか」
「外国……とだけでは、さっぱり当りがつくまいが、実はこっちにもまだ行先の当てはついていないのだが、まあ、伊豆の小笠原島よりは、もっと遠い、呂宋《ルソン》とか、高砂《たかさご》とかいうところ、或いはもっと、ずっとのして、亜米利加《アメリカ》方面まで行くかも知れぬ」
「それはそれは、たまげたおもくろみでございます、左様な遠方へお越しになるお船は、さだめしめざましいことでございましょう」
そこへ、また給仕役の金椎《キンツイ》が来て挨拶しましたから、駒井が、
「ちょうど、食事時だ、これから食堂へ行って、食事を済ましてから造船所へ案内いたそう」
と言って、自分が先に立ちましたから、七兵衛はそのあとに従います。
例の食堂に、今日は七兵衛という珍客を一人加えて、七兵衛が、全く勝手が違って戸惑いをするほどの変った形式で、食事を進めていると、さきほどから気がかりになるのは、程遠からぬ物置で、泣きわめく声。泣き疲れたのか、一時は低くすすり泣きのようにまで落ちていたのが、この一同が食卓を開くとじきに、またすばらしい声で号泣をはじめました。
駒井は苦《にが》い面《かお》をする。
茂太郎と、もゆる子とは面を見合わせて、くすぐったい思い入れ。
金椎には聞えないから、平々淡々。
食卓の調子の変ったので戸惑いをさせられた七兵衛は、この号泣でまた驚かされてしまいました。
それでも誰ひとり、号泣者を顧みようとする者はなく、食事は頓着なしに進んで行く――
六十四
駒井から船を見せられた七兵衛は、その時全く別な世界があることを教えられました。
別な世界というのは、自分が今まで、跼蹐《きょくせき》していた天地のほかに、別に自由自在な天地のあるのを、自分は気がつかなかったということです。
今までの自分の生涯が、土の上を走っていたから、行詰りが出来る、そのとどのつまりの行詰りは、もう極まった運命のほかに何物も無いと観念をしておりましたのに、ここには全く自分の能力を不用として、生きて行ける生涯があるということを知りました。
この船というものに自分を托しさえすれば、この自分の特徴であり、また、自分をあやまらせたところの超凡の足というものの能力が、全く無用になると共に、今まで自分の恐れかしこみ、潜み、隠れ、わなないていた魂というものが、全く解放されることを考えずにはおられません。
全くその通り、いかに早足でも、地上を走る時には必ず行詰りがあるにきまっている。
船に身を任せて海外へ走れば、そこには無限のにげ路があるではないか。
七兵衛は駒井から船を見せられて、そして海外移住の説明を聞かせられたときに、自分の前途の生命《いのち》につぎ足しが出来たなとはっきり思い当って、非常な大きな喜びと、一種の希望を見出したように感ぜしめられました。
船! 船に限る。
七兵衛は早くもこういうふうに宗旨変えを、心のうちで誓ってみました。
そしてまた、陣屋へ戻って来ると、暫しあって、かの物置で号泣の声が聞えます。どうも不思議でたまらないが、そうかといって、それを問い質《ただ》してみるのも失礼なように感じました。
ともかくも今日は休息するようにと、七兵衛は客間へ案内されて、そこに一人で暫く止まっておりました。
休んでいると、やがてコトコトと戸を叩いて、
「御免なさい」
「はい」
そこへ入って来たのは、清澄の茂太郎であります。
茂太郎は、片手には例の般若《はんにゃ》の面を抱えて、片手にはお茶と菓子とを持って、ここへ入って来ました。
「おじさん、お茶をおあがりなさい」
「はい、どうも有難う」
この子供はお茶を注いで、七兵衛にすすめたが、そのまま出て行かないで、お客様の傍へきちんとかしこまり、例の般若の面は後生大事にして、そうして、七兵衛に馴々《なれなれ》しく話しかけるのです。
「おじさん、お前どこから来たの?」
「え、私は遠いところから来ましたよ」
「遠いところってどこ?」
「向うの方のお山ですよ」
「向うのお山? では甲州上野原?」
と言われて七兵衛がギョッとして、思わずこの少年の顔を見直し、
「上野原とは違いますけれど、坊ちゃん、あっちの方を知ってますか」
「ああ、あたい、甲州の上野原の月見寺にいたことがあるのよ」
「ああ、そうですか、おじさんのところは上野原より少し近いけれども、やっぱり山ですよ」
「何というところなの」
「青梅というところですよ」
「青梅? 大きな眼があるの?」
「そういうわけじゃありませんよ、青い梅というところですよ」
「そうですか、そんな山の中から何しに来たの」
「少し頼まれた用事があって来ましたよ」
「何の用事を頼まれたの」
「こちらの殿様の御親類から頼まれて来たのさ」
「あんな山の中に、殿様の御親類があったのかしら」
「ええ、ありますとも、そこには御親類の可愛らしいお子さんがいますよ」
「そう、おじさん、もしかして、弁信さんはそっちへ行かないかしら」
「弁信さんて?」
「弁信さんというのは、私のいちばん仲のいいお友達よ。あの人とは、上野原で別れたっきりなんですもの。もしかしておじさんの方へ行ったら知らせて下さい、その人は琵琶を弾く盲目《めくら》の小僧さんだから、直ぐ分りますよ」
「ああ、それじゃ、もしおじさんの方へ来たら、知らせてあげよう」
「どうぞ頼みます」
そこでこんどは七兵衛が、この少年に向ってたずねてみる気になりました。
「坊ちゃん、お前の名は何ていうの」
「茂太郎――」
「茂ちゃん」
「ええ」
「あの、さっきから物置の方で大きな声で泣いていた者がありますね、あれは何ですか」
「あれはマドロスさんよ」
「マドロスさんというのは?」
「マドロスさんは、外国から海を流れ着いた人なのよ、それを殿様が拾って来て、うちに置いてあるんです」
「そうですか、では外国人の大人ですね」
「ええ、ええ、大人も大人、六尺の上もありますよ、田山先生も大きいけれど、それよりずっと大きくて、眼が碧《あお》くて、髪の毛が赤いんですよ」
「そうですか、そんな大きな人が、なぜあんなに泣くのです」
「それには理由《わけ》があるのよ、おじさん、あれはなかなか赦《ゆる》してあげられない理由があるのですよ」
「へえ、何か悪いことをしたのですか」
「ええ、悪いことをしたんです」
「どんな悪いことをしたの」
「お嬢様に悪戯《いたずら》しちまったんです」
「え、お嬢さんに?」
「そうですよ、それも一度や二度のことではないのです、ですから、今度という今度は殿様もお赦しになりません」
「そうですか、そんな悪い人なんですか」
「いいえ、悪い人じゃないんです、田山先生などは、ウスノロと名を附けてばかにしているくらいですけれど、田山先生がいないとあんなになってしまいます、お酒を飲むからいけないんですね」
「そうですか、誰も殿様へ、お詫《わ》びをしてあげる人はないですか」
「誰もありません、あんまり悪いことをしたから、造船所の人たちなんかは憎がって、海の中へ投げ込んでしまおうと言ってました。そのくらいですから、ああして、本当に心が直るまで手をつけない方がよかろうということです」
「困ったものですね」
「え、こんどのことは私たちもお詫びのしようがないから、うっちゃって置くのです」
「そうですか、でも船が出来上った時は、あの人も連れて行くのでしょう」
「そのことはわかりませんね」
その時、このところにあった時計が、五ツ鳴りました。七兵衛はこの音で初めて時計に気がついて、そしてなんだか分らない顔をして時計を眺めました。
「ああ五時だ、おじさん、私はちょっと行ってまいりますよ」
こう言って茂太郎は、この室を飛び出してしまいました。
六十五
あとに残された七兵衛、お茶を飲みかけていると、急にまた例の物置の方面で、けたたましい叫び声がして、人がののしり、号泣し、容易ならぬ騒動が持上ったもののようです。
七兵衛も一度は駈け出して見ようかと思いましたが、そのうちに噪《さわ》ぎはようやく静まり、人も出て行ったようですから、また腰を落着けていると、そこへあわただしく茂太郎がまた飛び込んで来て、
「おじさん、おじさん、大変だよ、大変なことが出来ちまったよ」
「何だい」
「今ねえ、村の人やなんかが大勢やって来て、マドロスさんをさらって行ってしまったのよ。マドロスさんは悪いことはしたけれども、本当は悪い人じゃないの、それをみんながああして連れて行ってしまったから、マドロスさんは殺されるかも知れません、大変よ、大変よ」
「そりゃ大変だ、殿様に申し上げたかい、殿様はどうしていらっしゃる」
「殿様は造船所の方へ行っちまったんです、そのあとへ村の人が大勢入って来て、盗人《ぬすっと》を殺せ、毛唐《けとう》の狒々《ひひ》をやっつけろなんて、大勢でマドロスさんを担《かつ》いで行ってしまいましたよ」
「それはいけないね、早く殿様に告げに行っておやりなさい」
「お嬢さんが行きました」
「それじゃ、おじさんもこうしてはいられない」
七兵衛もあわただしく立って、庭の方へ出て見ました。
なるほど、茂太郎が言った通り、村の人かなにかが多数に乱入して、無理矢理にこの物置の中の人を奪って行った形跡はたしかです。それにしても乱暴過ぎると思わないわけにはゆきません。
いくら悪いことをしたからとて、そこの主人が承知で物置へ入れて置くものを、よそから来て奪い去って行くというのは、あまりに乱暴です。
多分、このマドロスという男が、村人に、堪え忍び難きほどの損害か、恥辱かを与えたればこそ、こういう仕返しが来たのかもしれません。それにしても、主人を無視した、乱暴な仕打ちであると考えさせられました。
この分では、奪って行かれたマドロスという人の運命の程が思われる。どのみち、虐殺のうき目を遁《のが》るることはできない。何の罪状か知らないが、罪を問うならば問う方法がある、これでは無茶だ、という気持が、むらむらと七兵衛の心に起りました。
そうしてみると、一刻も猶予してはいられない。よしよし、とにかく、ひとつ出かけて行って見てやろう。七兵衛は客間へ取って返して、自分の道中差を取ってぶち込み、尻端折りをして飛び出しました。
行く先は分らないながら、とにかくあらましを茂太郎から聞き、足跡をたどり、途中で聞き聞き行くつもりで駈け出しました。
これが行く先さえ分っていれば、七兵衛の足だから先廻りをするに雑作《ぞうさ》はないが、なにぶん土地不案内のことです。
一方急を訴えられた造
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