沢井までお松をたずねて来ました。
「まあ、おじさん」
 こんな近いところにいながら、お松は、七兵衛に会うの機会が極めて少ないことでありましたから、無上の珍客として、なつかしい思いが先に立つのです。
「御無事で結構だね、お松さん、このごろどこへ行っても大へん評判がいい」
「ほんとに、おじさん、暫くでございました、青梅の方へ通りがかりの時、おたずねしてみたのですけれど、お留守だものでしたから、つい失礼いたしました」
「いや、わしの方もこれで貧乏暇なしなもんですから、つい……昨日、ふと与八さんに逢ったものだから、急にその気になって出かけて来ましたよ」
「まあ、きょうは、ごゆっくりなさいまし」
「ゆっくりしていたいんだがね、なかなかせわしない身体《からだ》で、こうしているうちも落着かねえような仕儀だから、おかまいなさんなよ」
「そんなにお忙がしいのですか」
「いや、百姓の方は、そんなでもないがね、人様から言伝《ことづて》を頼まれて、飛脚同様な役を背負わされるものだから、昨日は東、今日は西と、せわしい身体だよ」
「大抵じゃありません――」
「頼まれると、いやとも言えず、つい、うかうかと進み過ぎてしまって、ああ取返しがつかねえ……とこう思った時は後の祭りだ」
「ホ、ホ、ホ、何ですおじさん、人様から頼まれて、そんなに大仰に悔《くや》まないでもいいじゃありませんか」
「ハ、ハ、ハ、頼まれたことを悔むわけじゃねえが、ちっと進み過ぎて、もう今じゃ後戻りができず……お笑い草だねえ」
「いいえ、そんなことはありません。おじさんは、わたしを背負って山を下る時なんぞは、ずいぶんお足が早うございましたが、里へ出ると、あたりまえになってしまいますね、おじさんの足の早いことなぞは、青梅あたりにも知っている人は一人もないようですね、わたしだけが、それを知っているような気持がします」
「頭がいいのなら名誉にもなりますがね、手の長いのや、足の早いのは、あんまり自慢にはなりませんからね」
「ホ、ホ、ホ、手の長いのは自慢にはなりませんけれど、足の早いのは結構じゃありませんか、わたしなんぞも、こうして今では不自由なく、この地に根が生えたようなものですけれども、それでも、おじさんのように足が早ければ、行ってみたいと思うところがいくらもありますけれど、女の足では仕方がありません」
「その事、昨日、与八さんから、お松さんがしきりに、房州へ行きたがっているという話を聞きましたが――そこで、なんなら、わしが代ってその房州とやらまで行って上げてもいいと、そんなことを、ふと思いついたものだから、今日は久しぶりで訪ねて来てみる気になったのだよ」
「ああ、それはようございました、なるほど、おじさんならば……ほんとうに、房州までお使をお頼み申したいことでございます」
「おやすい御用だね」
「房州といえば、ずいぶん遠いところでしょうが、与八さんでは日数がかかるし、それに与八さんは、ここをはなせない人になっているし、あのムク犬は怜悧《りこう》な犬ですから、ひとりでやれば行きますけれど、犬のことだから、用の足りないこともあるし、道中が心配になります、それで、どうしようかと、毎日考えていました。おじさん、あなたが行って下されば、願ったりかなったりです」
「そんなことは全くおやすい御用だ――房州は何というところだね」
「洲崎《すのさき》というところでございます」
「洲崎――あんまり聞いたことのねえ名だが、なあに、たずねれば直ぐわかるだろう」
「江戸の霊岸島から、船で行くといいそうでございます」
「船はいけないね、千葉の方から内海を一走りした方が楽だろう」
「どちらでもかまいません――洲崎に、わたしが只今お預かりしているお子さんのお父様がおいでになるのです、そこへお便りをしていただきとうございます」
「うむ、何という人だね」
「以前は、駒井能登守様といって、甲府の勤番支配をつとめていらっしゃいました」
「え、甲府の勤番支配、そりゃ大物だ」
 七兵衛はここで、ギクリとした思い入れ。
「はい、今は駒井甚三郎様といって、世を忍んで、房州の洲崎にいらっしゃいます、そこへおたよりを願いたいのでございます」
「たしかに頼まれました、これから直ぐに出かけましょう」
「まあ、それはあんまり」
「なあに、房州ぐらい、江戸へ出て見れば鼻の先に山が見えますよ、何でもありゃしません、ほんの一走り、この足で、ここから飛んで行きますよ」
「それでは、これから、わたしが手紙を書きますから、どうぞ少しの間、お待ち下さいまし」
 こう言って、お松は引込んでしまいました。
 七兵衛は、ひとり炉辺で、お茶を飲みながら待っている。
 かなり長い時間――お松はかなり長い文言を書いていると見える。やがて、乳母の手に駒井の一子登を抱かせて、三人で出て来て、
「お待たせ申しました」
 お松は炉辺へ坐って、七兵衛に手紙を差出して、
「委細はこれに書いてございますから、駒井の殿様にこれを差上げていただきとうございます、それから、おじさん、ちょっとこのお子さんをごらん下さいまし」
「はいはい」
「これが駒井の殿様のたった一人の御血統なんでございます、この通り虫気もなく、すこやかにお育て申しておりますから、殿様にそれを申し上げて下さいまし」
「はいはい、よくねんね[#「ねんね」に傍点]していますね、争われないものだ、いいお子さんだ、立派な御人相だ」
 七兵衛は、登の面《かお》をしげしげと見入りました。
「ほんとうに、このお姿を殿様に、一目でも見せてお上げ申したいと思います」
「尤《もっと》もだ、尤もだ。その殿様はまだこのお子さんをごらんになったことがないのかえ」
「ええ、まだ親子のお名乗りさえしていらっしゃらないので、登様というお名前も、わたしがつけて上げたのです」
「そうですか、早く、このお子さんに、親子の名乗りをさせてお上げ申したいものだな、そうして、すんなりと御家督をついで、お家繁昌ということにして上げたいものだ、お松さん、頼みますよ」
「はい、わたくしも、そのことばかり願っておりますのよ。あの殿様は、今の時世にはエラ過ぎるので、ああして隠れていらっしゃいますが、やがて、世にお出なさる時は、どんなにめざましいことでしょう。その時になって、駒井のひとり子があのザマだと言われては、わたしの恥にもなりますから、きっと立派な方に育ててお目にかけるつもりでおりますと、そのことをよく殿様にお取次ぎ下さいまし」
「あ、わかった、わかった、いい心がけだ、お松さん、お前の心がけには感心した、世間の女房と娘に、その心がけの百一さえあってくれりゃあ、こんなことにはならねえのだ」
「何をおっしゃるのです、おじさん、それではあんまり愚痴っぽく聞えてしまいますよ」
「ハ、ハ、ハ、自分のことと、人様のこととを取交ぜて考えるものだから、つい……これを見るにつけてもなあ、お松さん」
「はい」
「こんな血統の立派な、胤《たね》の正しいお子さんにしてからが、やっぱり親の手を離れて置くと、どちらにも心配があるというものだ、ロクでもねえ百姓の倅《せがれ》の、馬鹿野郎のガキでも、親となり子となれば、それを思う人情には変りはねえというものだから……あの与八な、いや、どうも、かりにも人様のお家の者をつかまえて、与八なんぞと呼捨てにしては済まないが、あの与八さんなんぞも、あれで親無し子で育ったということだから、ずいぶん、気をつけてやっておくんなさい。このお坊ちゃまなんぞは、お松さんという心がけのよい娘さんの手で育てられているから幸いだし、あの与八さんも、こちらの大先生《おおせんせい》という大した人物に拾われて育てられたのが神様の恵み、この後もあることだから、与八の面倒も見てやっておくんなさい」
「何をおっしゃるのです、おじさん、与八さんには、わたくしの方でこそ、いろいろとお世話になっていますよ」
「おたがいに面倒を見て、助け合ってな、いよいよ立派な人になっておくんなさい」
「そのつもりではおりますけれど」
「さあ、出かけようなあ、遅くも三日のうちには返事を持って来ますよ。どうれ、お邪魔を致しました」
「まあ、よろしいじゃありませんか、たまのことですから、もう少しごゆるりと。それに与八さんもここへ呼びましょう」
「なあに、あの人には昨日逢ったばかりだからいい、それに善はいそげ、この足で……どうれ」
 七兵衛は炉辺から草履《ぞうり》をはいて土間を出ながら、また立ちもどり、
「お松さん、私の来たことは内証だよ」
と、お松の耳に口を当てて、ささやく。
「え、ようござんすとも、そんなことは少しも御心配なく……」
 お松の呑込みをあとにして、この邸を立ち出でてしまいました。

         六十三

 即日発足した七兵衛、生地より関八州、江戸から上方筋《かみがたすじ》へかけては、めまぐるしいほどの旅をつづけているが、房州路へは全くはじめてです。
 船を嫌って、内房をめぐるべく歩を取った七兵衛――江戸を離れようとする時に、乗込んで来た一隊の兵士と出逢い、直ちにこれが会津の兵だということに気がつきました。
 会津の兵が江戸にとどまるのではなく、このまま京都へ馳《は》せ参ずるのだとさとりました。
 それと、もう一つは北へ向って走る飛脚を一人見ました。飛脚の風をしているが、それは飛脚ではない、士分の者だ、ということを七兵衛が見て取りました。そうしてこれは水戸へ向って急ぐのだ、気のせいか山崎譲の後ろ姿のようにも見える。これらのものに行違うと、七兵衛の足は外房に向って走りながら、心はどうしても京阪に向って飛ばずにはおられぬ。
 その日、千葉の町で泊って、翌日はもう洲崎着。
 駒井の陣屋をたずねると、直ぐにわかる。来意を告げると直ちに会える。
 七兵衛は、そこで、はじめて駒井甚三郎に対面の挨拶をしました。
 世が世ならば、土下座をしても、対談はかなうまじきはずなのを、無雑作《むぞうさ》にその室に通されて、向き直って椅子に腰をかけさせられて、七兵衛がこそばゆい心地。
 椅子なんぞに腰を下ろしたことはないのに、こういった人品と当面して、会話を取りかわすなんぞということは、今までに経験のないことでした。
 それは神尾主膳のような人には、ずいぶん勝手な立居振舞をしたりしてもいいように出来ているが、この人との対面は、調子の違うこと夥《おびただ》しいと、さすがの七兵衛の腰がきまらないようです。
 そうして、せっかく、近くすすめてくれた椅子を、わざと自分でしりぞけて、絨氈《じゅうたん》のようなものが敷いてある板の間へかしこまってしまいました。
「それは、いけません、おかけなさい、こういう室では、腰をかけて話さないと、かえって失礼に当るものです」
 駒井から説かれて、七兵衛がおそるおそる、また椅子に取りついて、それを与えられた距離よりは、ずっと遠くへひっぱって行き、その上へちょこなんと腰をかけたものです。
 例によって、金椎《キンツイ》が出て来て茶煙草をすすめる。七兵衛はお辞儀をするばかり。
 そこで七兵衛は、お松からの手紙を取り出して恭《うやうや》しく駒井に捧げる。
 駒井は、その場で封をきって、サラサラと読み流し、
「よくわかりました、どうも御苦労でした。お前も、お松のいるところと同じ土地の人ですか」
「はい――二三里隔たっておりますが、まあ、同じ土地といったようなものでございます」
「いや、何かと、家の者共がお世話になります、拙者も子供のこと、お松のこと、絶えず気にかからないではないが、何を言うにも今は閑散の身で、かえって多忙なため、沙汰無しでいました、そのうち、あれを呼び寄せるか、こちらから使を出すか、どちらかせねばならぬと思っていたところでした」
「お松という子は、ふとした縁で、私が世話をして来たこともございますが、あれはたしかな子でございます、あれに預けてお置きなされば心配はございませんけれど、若様のためには親御様のお手許《てもと》で御養育なさるのが本当かと存じます」
「それも考えないではないが、今のところ、
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