を見はからって、自分の持山か、或いは人の持山から上木《うわき》を買取って、それをこな[#「こな」に傍点]しているだけのものです。
いつまで経っても話相手になる人もなし、加勢に来ようという人もなし、それでも根よくほとんど休むということを知らないで、薪をこなし、そうしてようやく、お正午《ひる》時分になったと気がついて、携帯の笠の中に入れて、とある一木の下に置いた弁当を開きにかかりました。
その弁当というのが、一かたけに約五合炊ぐらいははいる古風な面桶《めんつう》で、その中には梅干が二つと、沢庵が五切ればかり入れてあるだけのものでした。
そうして、一方、小さな樽の中へ詰めて来た水を飲んで、さも旨《うま》そうにその弁当を食べはじめたものです――
こうして見ると、本当の質朴そのものの、太古の民で、木と薪のほかには、一切の邪念というものが頭の中に無いのでしょう。たとえ王侯の位を羨《うらや》まぬ者としても、斯様《かよう》な平和な山間の農夫を羨まないものはないと思われます。
面桶の中の麦飯を食べながら、ふと、面《かお》を上げたところを見ると、見違えてはいけません、どうもあの青梅の裏宿の七兵衛という盗賊に、どこやら似ているではありませんか。どこやらではない、ほんとうによく七兵衛に似ているではありませんか。
だが、七兵衛には、親も、子も、兄弟も無かったはず。多少、縁を引いた親類でもあるかと思うて見直すと、見直せば見直すほどよく似ている。
よく似ているはずです、これが正銘の七兵衛ですもの――
人々は、めまぐるしいほど海道筋を飛び廻る七兵衛を知る。
ある時は京都に、ある時は江戸に、近くはまた尾張の名古屋に根を生やそうかと言っていた裏宿の七兵衛を知る。そこで、こうして薪を取っている七兵衛の存在を疑うのも無理はありませんが、これこそ七兵衛の本色ということを、誰か知る。
筒袖の垢染《あかじ》みた百姓着に、古い三尺をこくめいに結んで、浅黄の股引《ももひき》の膝当のついたのを丹念にはき、誰もいないところで、わき目もふらずに薪をこしらえている。これが七兵衛の本色なのです。
あんなにめまぐるしく飛び廻っても、時間にすれば、その飛び廻っている時間は、こうして働いている三分の一にも足りますまい。善良無名なる百姓七兵衛を、こうして見ることに全くその本色がありました。
ここで薪を取って、それをこなして、冬籠《ふゆごも》りの用心をする――ここから青梅の裏宿まで運ぶのはかなりの距離はあるが、それを自分ひとりでこなしては、自分ひとりで、或る時は手車を用いたり、或る時は背中に背負ったりして持ち運ぶ――
男やもめの七兵衛さんは、よくあれで辛抱して稼《かせ》いでいられる、とあたり近所の人が不思議がる。
豊太閤伝来の千枚分銅に目をかけて、東西を走《は》せめぐる七兵衛と、このお百姓七兵衛と、どこが別人で、どこが同人か、ああしている瞬間は怪盗七兵衛で、こうしている瞬間は百姓七兵衛――麦飯に、沢庵に、梅干の面桶を傾けて、それから小樽の水をグッと飲み、暫く昼休みの体《てい》で煙草をのみにかかりました。
あたりの山林はいよいよ静かなものです。冬木立昔々の音すなり、と古人の句にある通り、林の静かなるところに、本当の静かさというものが味わわれる。
ひとり煙草をのみながら、山林の静かな樹に七兵衛の平和な面《かお》の色――
これを、やや久しうすることあって、遥かに山林の外で犬の吠ゆるのを聞きました。
まもなく、一頭の大きな犬が走って来るのを認める。それは山林深く犬の走るのを見ることは珍しくはない。ただ、その犬の真黒くして、大きなことが目に立つ。
七兵衛は、その犬の近づいて来るのを無心に注意している。
やがて、その犬の後ろから、多数の犬が現われたのを見る。
五頭、六頭、十頭、あんまり数が多いものだから、少しく異様の目を以て見る。
犬は見えたが猟師は見えない、犬の飼主というものも見えない。
黒い大きな犬が、七兵衛の方へと、おもむろに歩んで来る。群犬がそれに従うもののように、周囲から群れて来る。
黒い大きい犬が、七兵衛の真向いに来て、はたと歩みをとどめて、七兵衛の面《かお》を見る。
七兵衛もその犬を見る――両個が面を見合わせる。犬はそれより以上に進まない。七兵衛は、はて見たような犬だと思う。
「あ!」
七兵衛が思わず立ち上る。
犬が一声高く吠える。
だが、その吠える声になんらの険難《けんのん》はありませんでした。それは自他の警戒のために吠ゆるのではなく、むしろ驚異のために吠えたようなものです――
一声吠えただけで犬は、七兵衛の面をつくづくと見ている。
「あ!」
七兵衛の方で狼狽《ろうばい》する。
彼は当然、この犬が自分に向って、のしかかって来るもののように警戒する。
だが、犬は動かない――
知る人は知ろう、この犬は間《あい》の山《やま》以来、七兵衛を見れば必ず吠えた犬です。吠えて飛びかかった犬です――飛びかかって、骨を食わなければやむまいとした犬です。その都度都度、七兵衛なればこそこの犬の鋭鋒を外《はず》して来たもので――外しは外したが、それはほとんど命がけでありました。
恐るべきものを恐れない七兵衛は、この犬をこそ最も恐れておりました。
今や、また、ここでこの強敵に出会《でくわ》した。これを外すは、木に登って避けるよりほかはないと思いました。
ところが、今日はその呼吸が少し違う。前いったように、戦意を示す吠え方でなくて、この山中、思わぬ人に出会したという驚異の吠え方であって、それのみか、一声吠えた後の犬の挙動が全然違います。
第一、あの眼の色が違います――殺気がありません、敵意がありません――無論多少の警戒はありますが、その警戒のうちに、充分和気の存することを七兵衛が見て取りました。犬が折れたのではない、こちらの疑いが晴れたのだという感じ……
こうして、犬と人とが睨《にら》み合うこと多時――その間、群犬は、林の中を縦横に飛び廻って、飛び遊びます――
この時ふと、人間の口笛の音がする――犬が出て来たのと同じ方向から、人が出て来たのを認める。極めて鈍重な若い大きな男が――これも見たような男、うむうむ、せんだってのあの沢井の水車小屋にいたあの男だ。
紛《まご》う方なく与八は、口笛を吹き吹き、ムクのあとを追うて来たものと見えます。
まもなく、すべてが、姿と形を見合って、与八がまず言葉をかけました、
「こんにちは……」
その言葉と態度とで見ると、せんだっての晩、水車小屋へ潜入して、自分に、とっくりと意見を試みて行ったその人と、気がついてはいないらしい。
「こんにちは……」
と七兵衛も同じように挨拶する。
「ソダごしらえですか」
与八がいう。
「はい」
七兵衛が答える。
「犬が邪魔をしやしませんかね」
「いいえ、邪魔をしやしませんよ。その犬はお前さんとこの犬ですか」
「これはお松さんの犬ですよ」
「お松さんは、どこからその犬をつれて来ましたか」
「どこからですかねえ、江戸にいる時分からついていましたよ」
「そうですか」
「はい、でかいけれど、おとなしい犬ですよ」
「お前さんは、沢井でしたね」
「はい」
「沢井の机の若先生は、今どちらにおいでになりますか」
「竜之助様ですか」
「はい」
「あの人はどこにおいでなさいますかねえ」
「奥様は……」
「奥様というのは?」
「あれ、その、お浜様といって」
「ああ、あのお浜様か、ありゃ、江戸でお死になされた」
「おやおや、それはお気の毒な」
「気の毒なことをしましたよ」
「お子さんは……」
「お子さんというのは、あの郁太郎《いくたろう》さんのことだろう」
「ええ、郁太郎さんと申しましたかね」
「あれは今、おたっしゃで、沢井におりますよ」
「そうですか、お父さんも、お母さんも、おいでなさらねえでは、さだめて、不自由なことでしょうねえ」
「それでも、お松さんが世話をしてくれるから助かります」
「それから、和田の宇津木様はあれからどうなりましたか」
「あそこもいけませんねえ」
「文之丞様があんなにおなりなすって、あとはどうなりました、お江戸へ出ておしまいなすったそうですね」
「え、え」
「文之丞様の弟御に兵馬様という方がありましたが、あの方は時々お見えになりますか」
「あれから一遍も、こっちへは帰って来られねえようですよ」
「机の大先生《おおせんせい》は?」
「とうの昔になくなりました」
「おやおや、それはお気の毒な」
「机のお家も、宇津木も、どっちもいけませんが、机の方はお松さんがよく郁太郎様を世話しているし、宇津木の方も兵馬様の代になれば立ち直ることでござんしょう」
「お松さんという子は、どこの人ですか」
「お松さんは江戸の人ですよ」
「机のお家の御親類ですか」
「親類ですかどうですか、そのことはよく知りませんが、お松さんはいい人です、あの人がいる間は、わしもこの土地を離れられませんねえ」
「そうですか、お前さんはお松さんと仲がいいかい」
「そりゃ、お松さんは無ければならない人になっていますよ」
「もし、そのお松さんが、江戸へ出るとか、他国へ行くとかすれば、お前さんはどうしますね」
「その時は、わしも一緒に行きますね、お松さんがお嫁入りするようなことになれば、わしは下男としてでもあとをついて行きますが、あの人はお嫁入りなんぞはしないでしょうと思います」
「では、お松さんという子が、この土地にいつく限り、お前さんもこの土地を離れないのだね」
「ええ、その通りです」
「お松さんは、ほんとうにこの土地にいたがりますか、よそへ行きたがりませんか」
「どこへも行きたがりません、行きたがっても、もう、ちょっと動けないでしょう」
「どうして」
「あの人は、人様の子供を二人も自分の手で育てていますからね。そのほかに、近所の娘たちや子供を集めて、いろんなことを教えたり、諸方へ頼まれて行くものですから、今では、ちっとの隙《ひま》もありません、よそへ出たくも出られないでしょう」
「それはまあ結構なことだ」
「でも、お松さんは、房州へ一度行きたい、行きたいと、口癖のように言っていますよ」
「房州へ?」
「え、え、ほかにも行きたいところはあるようですけれど、それはあきらめるが、房州へはぜひ一度行きたいものだが、行けないと言っていますよ」
「はてね」
「あの登様というののお父様が、房州に住んでいるとか言っていました、そのお父様に一度逢いたいと、こう言ってお松さんが、わしに相談をすることがありますけれど、お松さんひとり出向いて行くわけにもいかず、わしもお松さんを置いて出かけるわけにもいかず、困っていることもあります」
「なるほど――して、その登様という子は誰の子なんだね」
「登様というのはまだ赤ん坊でしてね、お松さんが預かって世話をしているのです、いい坊ちゃんですよ」
「ははあ、そのお父さんという人が、房州に住んでいるのかね、房州で何をしているのです」
「何をしていますかね」
「それには事情がありそうだ――ではね与八さん」
この時、七兵衛が膝を立てました。
「はい」
「わしは、お前さんとこのお松さんはよく知っているのだがね、わけがあって、御無沙汰《ごぶさた》をしている。明日の朝、わしがお松さんに会いに行くからってね、そう言って置いて下さい」
「はい、そう言いましょう、お前さんはどなたでしたかね」
「わしは、裏宿の七兵衛といえばわかります、ないしょで言って下さい、わしの名は、なるべく小さい声でお松さんの耳へ入れて下さいよ」
「はい」
ここで、七兵衛は再び斧を取り上げて、薪のこなしにとりかかりました。
与八は、犬を引きつれて、帰り路に向います。この時まで、七兵衛を見まもっていたムク犬は、全く無事に与八について引上げる。その人と犬との後ろ影を、七兵衛は、いったん取り上げた斧を下におろして、じっとながめていること久しいものでありました。
六十二
果して、その翌朝、まだ暗いうちに七兵衛が、
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