らぬ」
と制止せられたとある。
 これによって見ると、前後に少し合わぬところはあるが、尾州の「水祝い」も、元禄以後には全く廃止せられたものと見なければならぬ。
 しかるに、この際、特に道庵先生に敬意を表するために、この廃《すた》れたる古儀を復興して、十二分に「水祝い」をして上げたことと思えば腹も立てないではないか。
 それにしても、少々祝い過ぎたようです。
 事がこう不意に出でては、いかに古式の復活でも、驚かされないわけにはゆかぬ。いかに物に動ぜぬ道庵先生とても、行逢いがしらに前後左右から水をブッかけられたのでは、悲鳴をあげないわけにはゆきますまい。せっかく、名古屋人士が、充分の好意を以て、あらゆる名所見物を道庵先生のために開放したのはいいが、古式の復活も、ここまで来ては少々礼を過ぎたことになりはしますまいか。
 しかし、これを好意に取ると、親切なる名古屋人士は、あらゆる歓待をこの珍客に向って加え、のぼせ上らせるだけのぼせ上らせてみれば、もうこの上は、そののぼせを引下げるよりほかには御馳走が無いと見たから、ついにこの最後の水饗応に及んだものだろうかと察せられる。
 また、道庵の方から見て、こうも仰山に、周章狼狽して、陸上に沈溺し、足も腰も立たない醜態を演じているが、実のところこれも芝居だ。
「面白え、その水祝いというのを生《いき》のいいところで一つ振舞ってもらいてえ」
なんぞと言い出したのが最後――不意に狼狽《ろうばい》したように見せて実は、こういう目に逢ってみたいことを万々承知で、役者を揃え、舞台を廻させておいたかも知れぬ。
 ともかくも、あえなく水倒しにされて、路上で陸沈の醜態をさらしている道庵それ自身は、思ったよりも天下泰平で、めでたく市《いち》が栄えたつもりでいるようです。

         五十八

 東妙和尚が、ある日のこと、与八に向って何を言うかと思えば、
「与八や――わしも永年、諸所方々を歩き廻って来たけれど、まずこの地方の梅干《うめぼし》ほどうまい梅干はないと思うよ」
と言いました。
「へえ、そうでございますかね」
「まず日本一――とは言えるかどうか知らないが、この土地の梅干の味は無類だよ」
「そうでございますかね、この辺は桃の名所だということは、昔から誰も知っています」
「それは、桃の名所としても聞えたところだが、梅は格別だな」
「土地にばかりいちゃわかりませんね」
「そうだ、他と比較してみなくちゃ、すべて物のねうちというのはわからない」
「そんなどころじゃございません、この土地では、梅の木を邪魔にして、伐《き》り払ってしまう家が多いようですね」
「それだ、わしも時々、出かけて見ると、あの枝ぶりの面白い老梅の樹を、むざむざと伐っているから、何にするのだと尋ねると、家が日蔭になって邪魔になるから伐って薪にすると言っていたが、さてさて、物の冥利《みょうり》を知らぬ話だと思って、つくづく意見をして来たことだがね、わしの意見もなかなかわかっちゃくれまい」
「そうですね、年々、梅の樹が減ってしまうようですね」
「名物がなくなってしまうのだ」
「惜しいことでございますね」
「惜しいことだ。すべてな、与八、物がその土地の名物とまでなるには、その土地に備わる天分というものがあって、最初にその種を蒔《ま》いた人は、よくその天分と、地味とを見分け、その後、代々容易ならん苦心が積み重なって、ようやく名物となるのだ。それを孫子に至ると、すっかり忘れてしまって、一時の目先だけで新しいものと取替える、それがやがて取返しのつかぬことになる」
「そうでござんすかなあ」
「そうさ、わしはお百姓でないから、地味のことはよくわからんがの、この土地は陽を受けているから桃がよく育つ、川向うは陰だから、それで梅の質に合っている、それを見込んで昔の人は、土地にかなうような苗を植えつけたものだ。これから少し西へ出ると柚《ゆず》がいいな。この土地は、山間《やまあい》の石のある地味が、柚というものにかなっているらしい。これから二三里下ると、柿にいいところがある。だから、よく地味に相当するものを植えつけておくと、知らず識《し》らず、それが名物というものになって、他の土地では見られない風味というものが出来てくるのだ。この川向うの梅なんぞも、たしかにその名物の一つなのだ。その梅が、一本でも減少するということは、心細いもんだよ」
「このごろは、梅を植えるより桑を植えた方が割がいいなんて、みんな桑畑にしちまいたがるようです」
「それだ――桑を植えて、蚕《かいこ》を養って、絹を取れば、それは今のところ、割がいいかも知れないが、末に至って、どうなるものかわからない。桑がいいから桑、百合《ゆり》がいいから百合、除虫菊《のみとりぎく》がいいから除虫菊――いいものに移るのはいいが、その時の調子で、眼先の景気だけに取られるのはよくない」
「そうですね、いま、割が悪いと思っても、直ぐにまた、よくなることもありますね、今時、ずっと景気がいいからといって、それが幾年も幾年も続いていられるかどうかわかりましねえ」
「そうだとも、今、梅よりも桑がいいからといって、あの見事な梅の老木を伐《き》り倒し、桑を植えかえちまうなんていうのはほんとうに、眼の前だけの勘定だ、きっと、いまに後悔する時があるよ。そればかりじゃない、この裏の成木というところの山を掘れば、いい石灰が出るというんで、昔は江戸のお城普請にまで御用になったものだが、それをいい気になって、近頃は山師が入りこんで、その石灰山を買占める、正直な山持たちは、山の売値がいくらか割がいいというところに釣込まれて、山師に山を売ると、山師が黒鍬をつれて来て、山を掘っくらかえしてしまう、美しい天然の形をしていた山が、デコボコのギザギザ山になってしまって、それからは何の木を植えても育つことではない。杉を植えたり、雑木を植えたりしておけば、ちょっとの間には目に見える儲《もう》けはないとしても、何十年、何百年の間に、植えかえ植えかえすれば、その利益はのべ[#「のべ」に傍点]にしてみると大したものだ、見たところも、山は山らしい厚味があって、土地の人情ともすっかり合った風景になるのだが、ああして石灰山を売り飛ばしてしまっては、一時のかす儲けばかりで、未来永劫に廃《すた》れ山になってしまう。近頃は、この武蔵野にも美しい雑木林がだんだん減って、殺風景な桑畑ばかりふえる、梅なんぞもその通りだ、流行物に心をうつして、古来の風土にかなった名物を失うと、もう取返しがつかないものだ。そこで与八――お前に相談だがな」
と東妙和尚から、与八殿がかなり長い前置附きで相談を持ちかけられたところは、いつぞや、石の地蔵をきざみながら、地蔵和讃の口うつしを受けた、彼岸桜の大木の下の芝生の上です。
「お前に相談というのはほかでもないがな、あんまり、あの梅の亡びることが惜しいものだから、ひとつ、わしが、もくろみ[#「もくろみ」に傍点]を立ててみたものだ。これからひとつ、そのもくろみ[#「もくろみ」に傍点]によって、お前と乗《のり》になって、一商売をはじめてみようと思うのだが――」
「わしゃ、あんまり商売は上手でねえんでしてなあ」
と与八が謙遜する。与八があんまり商売が上手でないことは、自分が謙遜するまでもなく、東妙和尚がよく呑込んでいるはずだ。東妙和尚とても、あんまり商売に得手であるまいと思われる。どのみち、この二人が片棒ずつかついで、ありつこうという商売は、士族の商売よりもあぶないものかも知れないが、さりとて、和尚は世間を知っている、それに坊主丸儲けということもある、存外、妙腕を揮《ふる》って、半ぺん坊主の向うを張るつもりかも知れない。そこで、与八が謙遜するのを、東妙和尚が抑えて、
「損をしたって元《もと》という商売だから、心配しなさんな」
と慰め、
「うまく行けば坊主丸もうけだ。実は、わしがあの梅の木を伐《き》るのを見て、惜しいと思って意見をしたが、こんな物の道理はなかなか、眼先ばかり見ている当世人にはわからないから、いっそ、こっちが上手《うわて》を行って、一儲けをして見せてやって、それからのことだ。そこがそれ、小人は利にさとるとかなんとかいって、目の前へ儲けてやって見せてからでないと、お説法を信用しない。そこで、わしが考えついた大銭儲けというのは、まずこうだ、与八、聞いてみてくれ」
 東妙和尚も、芝生の上の虎の子石へ腰を下ろして、両膝をかかえながら、与八に向っての、金儲け話。
「与八、聞いてくれ、あの梅の木を伐らせないように、残らずこっちで買占めるのだ」
「へえ、あの吉野村の梅の木を、残らず買占めるんですか、何千本、何万本てあるやつを、そっくり買占めるんですか、買占めて、どこへ持っておいでなさる」
と与八が、仰天してしまいました。それを東妙和尚が説明して言うことには、
「残らずったってお前、あの村の梅をみんな買占めるという日には大変なものだ、そういうわけではない、なかには、先祖伝来の庭木だから、また多年手入れをよく仕立てたものだから、という理由で、大切に育てているところが大分ある、無茶に伐り倒して薪にして、そのあとへ桑なり、除虫菊なりを植えようというのは、実は村内にそうよけいあるわけじゃないから、それを、相当の価格で、買占めておくまでのことだ、老木の惜しい奴を二三百本も買っておけば、大体話がつくのだ」
「一本いくらで売りますかね、値段よりも人夫が大変でござんしょうなあ、一本でも持って来て、こっちへ移し植えようというには、五人や十人の手間じゃありませんぜ、とても費用がかかりますねえ」
「かりに一本、二分ずつにしたところで、三百本と見ても知れたものだ。二分なら喜んで売るだろう。そうして買ったからとて、なにも強《し》いてこっちへ引取らなくてもいいのだ、相当の地代を払って、そのまま置据えにしてもらって、そうして、実《み》はこっちで取って、それからが商売にかかるという寸法よ」
「だって方丈様、土地でも、実を取って売ったところで引合わねえから、伐って桑を植えたり、桐を植えたりしたがるのでしょう、それをわざわざ大金を出して買って、置据えにしたって、いよいよ割に合わないねえ」
「そこだ――そこが商売の秘伝《こつ》なのだ与八、いいかえ、さっきも言う通り、土地の人は、そんな特別の梅を持っていながら、その味がわからないのだから、まずその味をわからせるようにするのだ、土地の人にわからせるようにするのじゃない、世間一般に向って、吉野の梅は旨《うま》い、天下一品だ――ということを知らせるようにすると、買い手が多くなる、買い手が多くなって、なるほどこいつは能書通りうまいわいということになると……名物にうまい物無しというが、この吉野村の梅ばかりは格別だ、あの辺は俗に青梅在といって、梅を名乗っているのは、なるほど、地味そのものが梅にかなっているのだ、梅干は青梅在の吉野村の梅干に限る、というようなことになれば、年々、梅干の需要が殖えて、江戸はもとより、日本中へ売れるようになる」
「なるほど……」
「そうだろう――土地で食ったり、青梅あたりへ売るだけでは数の知れたものだ、これが馬に積んで、どんどん江戸まで出るようになってごろうじろ、あの山と谷をみんな梅の木にしたって、まだ足りない。そこでひとつ、お前とのり[#「のり」に傍点]になって、その梅干屋を開業してみたいのだが、どうだな、わしが金主元で、お前が製造主任、お松さんが、販売兼支配人ということになれば、この商売|外《はず》れっこなしだね。万一、損をしても、今いう通り、損をしても元だから心配をするものはないのだ。どうだ、そういうわけで、与八、お前がひとつ梅干の製造方を引受けてくれないか」
「引受ける段ではございません、方丈様のおっしゃることなら、何だって、いやとは申しませんが、梅干の製造法は、わしはまだよく知らねえですから、ひとつ、誰かに聞いて勉強してから、お引受けをした方が、たしかじゃあござんすめえか、せっかく、製造元を引受けたって、下手にやって腐らかし
前へ 次へ
全52ページ中45ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング