るを補うという神妙なる親切気が、名古屋城下の人を歓喜せしめたのみではありますまい。
名古屋に入るとまず、金の鯱なんぞには目もくれず、一直線に尾張中村まで来てしまって、そこで、豊太閤の供養を営んで、徳川幕府の忌諱《きき》に触れることを、意としないという大胆なる勇猛心が、心ある人をしてなるほどと感心せしめたのもその一つでしょう。
それから、見るもの聞くものに対する軽率なる判断と罵倒《ばとう》――学者のことをいえば学者、医家のことをいえば医家、餅屋のことをいえば餅屋――酒屋のことをお手前物のように、踊りのことも、浄瑠璃《じょうるり》のことも、大根から味噌のことまで一騎に引受けて、苦もなく、こなすものだから、その博識は測るべからず、その大通は粋を窮《きわ》め、博識と大通のあまり、人を茶に浮かして興がることに生きている一代の逸民。
つまり、こんなふうに、わが道庵先生を買いかぶってしまったればこそ、この江戸舶来の珍客に、名古屋の粋を味わわせて、歯に衣《きぬ》着せぬ批評を承っておくことは、名古屋人士にとって、後学の機会である。
こういう人の罵倒は、罵倒せられた方も恥ではなし、また、こういう人に賞《ほ》められたのこそ、本当の粋中の粋なるものだ――というように買いかぶってしまったものです。
そこで、次から次と、道庵滞名中の時間を繰合わせて、例のお数寄屋坊主を進行係に立てて、道庵先生の閲覧を仰ぐべきプログラムが編成されたものです。
そのプログラムを逐一《ちくいち》、ここに掲げるのは煩《わずら》わしいことだが――情けないことには、道庵先生が、ことごとくいい気になってしまって、大のみこみで、よしよし、いちいち点検して遣《つか》わそう、残らず拝見して参りますよと、引受けてしまったことです。
そこで、プログラムの編成者や、各催しの主催者側は恐悦しましたけれど、いったい、事実上、それを道庵先生自身が、どう処分するのか。
このプログラム通り巡見するとすれば、かけ足で通っても十日はかかるだろう。前途日程、限りあるこのたびの旅路、それをどうする。
そんなことはいっこう、頓着のない道庵――もてはやされると、いよいよ乗り気になるばかり。謙遜ということを知らず、辞退ということをわきまえず、遠慮ということに目のないこの先生は、魂が酒量と同じことに底抜けで、脱線がかえって本筋に通るのだから、始末にいけないことはこの上もない。
その日も果して、勢いこんで、尚歯会主催の詩歌連俳の会に定刻前から乗込んで、放言を逞《たくま》しうしました。その一例を挙げてみると、何かにつけて頼山陽《らいさんよう》の話が出た時、
「山陽なんぞは甘《あめ》えものさ」
と口走ったのをきっかけに、騎虎の勢いで頼山陽をやっつけにかかり、
「山陽なんぞは甘えものさ。まあ、支那の本場は論外、近世ではおらが方の佐藤一斎だねえ。一斎の前へ出てごらん、山陽なんぞは後学のまた後学の丁稚《でっち》さ、品物でいえば錦と雑巾《ぞうきん》だね。世間というやつは得てして盲目《めくら》千人だ、山陽なんぞを有難がるのは、ボロッ買いみたようなもんだと、まあ言ったものさ……」
この思いきった道庵の罵倒に、席上の山陽|贔屓《びいき》が納まらないとする。山陽論が席の話題になる――頃を見計らって、また道庵が、今度は山陽をホメ出すこと。あれは天才である、詩人を以て目すべきものではない、慷慨家であって、学者として見ては違う、その文章も、漢詩も、和臭の豊かなところが、すなわち山陽の山陽たる所以《ゆえん》であって、彼は漢詩の糟粕《そうはく》を嘗《な》めている男では無《ね》え、むしろ漢詩の形を仮りて日本を歌ったものだ、彼に於て、はじめて醇乎《じゅんこ》たる日本詩人を見るのだ、意気と、声調を以て日本を歌ったものに、古来、彼以上のものがあるか、なんぞと言い出したので、人々を呆気《あっけ》に取らせました。
思う存分に、山陽を下げたり上げたりしてからに、
「まあ、そいったようなわけだが、人物としては山陽なんぞはごくお粗末なものさ、いわば一種のおっちょこちょいさ。わしも若い時分に、ちょいちょいあの男とは逢ったものだがね(註に曰《いわ》く、少々怪しいものだ)人物は、からっきし、おっちょこちょいで、大塩平八郎や、渡辺崋山あたりとも段違いさ。平八郎も、崋山も、みんな煙草をのみ合った仲間だがね(註、こいつも怪しい)大塩は何といったってお前、豪傑の面影はあるさ。崋山もお前、どこへ出したって士大夫の貫禄は確かなものだ。そこへ行くと山陽なんぞは、せいぜい足軽組の五人頭だね」
その露骨さ加減に、また一座が白け渡ったとする。それを委細かまわず道庵が、古今の詩を論じ去り、論じ来《きた》って、星巌、湖山、春濤まではまあいいとして、
「君たちは、山陽なんぞを問題にするがものはねえ、この尾張の国から、森槐南《もりかいなん》という大物が出ている、あれは大したものだねえ。詩を作ることはどうだか知らねえが、詩の学問にかけては古今独歩だよ。ここに古今独歩というのは、日本だけの古今独歩じゃねえぜ、本場の支那をひっくるめての古今独歩だ、あいつには降参するよ。よく尾張の国は日本一を出したがる国だ、頼朝、信長、秀吉は事が古い、瀬戸物が日本一で、大根も日本一、踊りも日本一、金の鯱も日本一、美人も日本一、味噌も日本一だといっているが怪しいもんだ。そこへ行くと詩学の造詣に於て、森槐南なんぞは、日本一を通り越して、唐《から》一だから豪勢なもんさ、ああなると道庵も降参するよ――」
脱線もここまで来ると、一座が驚倒絶息せざるを得なくなりました。この座に連なる名古屋の、一流株の名士連といえども、いまだかつて、自分と同じ国に森槐南とかなんとかいう、すばらしい漢詩学者が存在しているということも、いたということも、見たものは愚か、聞いたものは一人もないはずです――
それもそのはず、その当時、森槐南は、まだ生れていたかどうか、生れていたとしても、ようやく立って歩むほどの年ばえであったであったかどうか、それを道庵先生が引張り出した脱線ぶりには、誰あって驚倒しないものはないはずです。
それにつづいて、名古屋の筍連《たけのこれん》にも思いきった八ツ当りを浴びせ、医学館の薬品会をコキおろし、伊藤|玄沢《げんたく》の施薬をおひゃらかし、三臓円や、小見山宗法が店をひやかし、ういろう、きしめん、名古屋女とお市の方、梨瓜と大根、名古屋の長焼、瀬戸物、風呂吹き、漬物の味――宗春の発明したというナモ、キャモ、オキャアセ言葉――当るを幸いに、批評毒舌、時にはやや如才ないことを言ってみたりして、十二分の有頂天《うちょうてん》で、その席を送り出されて来ました。
そうして、伝馬会所の札の辻のところまでやって来た時、不意に道庵先生の後ろから水をブッかけたものがありました。
「あっ!」
と腰を抜かして、道庵が振りむくところ、また一杯、今度はその左の方から物をも言わず、手桶に一ぱいアビせかけた者があります。
「あっ!」
と左を見返す時に、今度は右の方から、思いきって冷たい一杯の手桶の水を、ブッかけた者があります。
見るも無惨に道庵の腰が抜けて、仰天しているところで、真向《まっこう》からまた一杯。
「あっ!」
ほとんど道庵をして、腰を立てるどころか、息をもつかせないほどの出来事で、札の辻の真中に腰を抜かし、醜態を遺憾なく曝した道庵は、盲《めくら》が壁を塗るような手つきをして、しばらくは、
「あっぷ、あっぷ」
と咽《むせ》ぶほかには、為《な》さん術《すべ》を知りませんでした。
そもそも、これは何という無惨なことでありましょう。例のプロ亀やデモ倉の、苦肉を以てのたくらみ、道庵を江戸からつけ覘《ねら》い、とうとうかかる下劣の手段で、闇討を決行してしまったものか、そうでなければ、先日の軽井沢の場合のように、道庵の親切が過ぎたための不慮の災難か、とにかく、こうして、前後左右から、つづけざまに水を浴びさせられた道庵は、一時、全く人心地を失い、腰が立てなくなって、陸上に溺没してしまったことですが、誰とてこれを助け起そうとする者もありません。
こういう場合に於ての宇治山田の米友――またしても危急存亡の場合に、英雄が居合わさない。
だが、この場合は全く軽井沢の場合と別に、一英雄が現われたとて如何《いかん》ともすべからざる事情であったのです。
それは、先生は知ってか知らずにか、とにかく、この場の水難は、これはなにも、江戸の敵《かたき》を名古屋で、という影武者があったわけでもなく、全く生命に危害を加えようという暴徒の所業でもなく、実は極めておめでたい慣例にひっかかってしまっただけのものです。
尾州の古俗に「水祝い」というのがある。上品なところでは婚礼が済むと、その家の門の前で、裏白《うらじろ》に水をつけて肩衣《かたぎぬ》へ少しずつ注ぎかける――それが身分に応じて、水の代りに「はぜ」を以てすることもある。夫人が奥で「水祝い」をする時には、金銀の砂子《すなご》を紙に包んで注ぐこともある。
小笠原家から出た水島家の伝書の中にも「水祝い」の礼物を記したのがある。
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「手桶一対――白絵に鶴亀、松竹を書く、本式は手桶十二――それに髭籠《ひげこ》――摺古木《すりこぎ》――杓子《しゃくし》」
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これによって考うれば、王朝時代から行われた「内火《うちび》とまりの寿《ことぶき》」という儀式と同じようなものであろうと言われる。
とにかく、この「水祝い」は二代光友の時までは行われ、家中奥向勤めの輩《やから》は、正月に御前で「水祝い」を為すことになっていた。そこで寛文十年には「水あび御定《おさだめ》の覚」というものがあって、婚礼の翌一年は申すに及ばず、たとえ三年五年過ぎても、御前に於て水あびを申すべき事。
なお、「もみ[#「もみ」に傍点]」を以て水にかえることもあったと見られるのは、同じ定めのうちに、
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「もみ[#「もみ」に傍点]候事、上下衣服等もみ候ひて、人前出で難きほどの体《てい》成り候はば水むやくたるべくの事、一度もみ[#「もみ」に傍点]候上は水同然に候間、其上はもみ[#「もみ」に傍点]候事無用の事、附、無筋《すぢなき》儀を申立てもみ[#「もみ」に傍点]候儀無用たるべき事」
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というのは、もみ[#「もみ」に傍点]はすなわち胴上げのことであろうと思われる。
ところが、元禄五年に至って、玉置市正なるものが千石の加増を賜わって、知行《ちぎょう》二千石となるや、その翌年正月、光友から市正に小姓衣を振舞われた。その時、奥勤めの者集まって、市正に「水祝い」をするか、もみ[#「もみ」に傍点]にするかという内評議を聞いて、市正迷惑のことに思い、主人に聞え上げたと見えて、その時から禁止せられたということになっている。
この禁令は元禄十七年(宝永元年)十二月二十八日ということで、その時の廻文に、
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「手紙ヲ以テ申入候、近年婚礼相済ミ候者、水振廻ノ祝儀ヲ為シ、近所ノ者寄リ集マリ、作法|宜《よろ》シカラザル儀|之《こ》レ有ル段相聞エ候、以後右ノ様子ノ族《やから》、之レ有ルニ於テハ、急度《きっと》、御吟味ヲ遂ゲラルベキ旨、仰セ出サレ候、向後、相慎シミ、作法宜シキ様ニ仕《つかまつ》ルベキ旨、御老中仰セ渡サレ候条、其ノ意ヲ得ラルベク候、以上」
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とあるによって見ると、この「水祝い」がかなり無作法なものになって、この慣例をいいことに、ずいぶん人に迷惑を及ぼす弊害が多かったものと見える。
それでも儀式としてはまだ相当に残されていたものと見え、万治三年の正月に、家中水あびせがあった時に、侍たちが光友の世嗣《よつぎ》綱誠に向って、慰みのためにこの水あびせを御覧になるように申し上げたが、世嗣はこれをことわって、
「侍たる者を裸にして、庭上を引きずり廻ることは、更に行儀にあらず、作法が闕《か》ける。水あびせの事重ねて申し出てはな
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