もことわらず、フラリと宿を出てしまったことは事実です。
それは単に、お角が口惜《くや》しがって、想像したような心持ばかりではないらしい。
音に聞えた鳴海と聞いて、歌書や、物語で覚えた古《いにし》えの鳴海潟《なるみがた》のあとをたずねてみたくなったのもその一つの理由です。
鳴海潟のあと、鳴海潟のあとと、たずねて参りましたけれども、誰もそれと教えてくれる人はありません。
鳴海という字面から、古えの文《ふみ》の教ゆる松風と海の音とを想像して来て見たら、松林もなければ、海もない。
人にたずねてみると、海はまだまだこれから遠いとのこと。この辺が海であったのは、遠い昔のことで、鳴海は名のみ、今は鳴らずの海だという。多分、あの小さなお寺のあるあたりが、昔の鳴海潟であったでござんしょう、だが、それは千年も昔のこと――と言われるままに、お銀様は、とあるところの小さな庵寺にまでさまよい至りました。
手のつけようもなく荒れ果てた庵寺。お銀様は堂をめぐってその額などをながめて見ました。
古雅な土佐風の絵に、古歌をかいたのがゆかしい。
読みにくいのを、お銀様は注意して読んでみる。
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あはれなり
いかになるみの里なれば
又あこがれて浦つたふらむ
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と読まれるのもある。
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甲斐なきは
なほ人知れず逢ふことの
はるかなるみの怨《うら》みなりけり
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としるされたのもある。
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昔にも
ならぬなるみの里に来て
都恋しき旅寝をぞする
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とうたわれたのもある。
よみ人の名の記されているのもある、いないのもあるけれども、いずれも古えの名家の歌であることは疑うべくもない。
少しむずかしいのには、
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幾人東至又西還(幾人か東に至りまた西に還るや)
潮満沙頭行路難(潮沙頭に満ちて行路難し)
会得截流那一句(流れを截《た》つの那《か》の一句を会得《えとく》せば)
何妨抹過海門関(何ぞ妨げん海門の関を抹過するを)
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と読まれるのもある。
どれもこれも、時間の永遠にして、人生のはかないなげき、いかになる身の果ての詠歌でないものは無いらしい――と思われる。
古《いにし》えの人はここに来て、須磨や、明石や、和歌の浦の明媚《めいび》をうたわないで、いかになる身にかけて来る。鳴海の字訓そのものが、歌人の詠嘆を迎えるようになっているかも知れないが――鳴海そのものにも、眇《びょう》たる人生のはかなさを教えるものがあるに相違ない。
お銀様はどうかして古えの鳴海の海を見たいと思いました。鳴海潟に啼《な》くという千鳥の声を、飽かず聞いて帰らないではおられない心持になって、それで、いずくともなく鳴海を求めて歩き出しているのです。
五十二
この際、名古屋にいた宇治山田の米友は、まっしぐらに宮の七里の渡し場めがけて走っている。
名古屋を後ろにして、やや東へ向いて走るのです。
その眼の中には焦燥はあるが、それは軽井沢の時に、主人を見失った責任感から峠を走《は》せ下った時の呼吸とは違います。
波止場に立った米友は、ちょうど、いま立ったばかりの七里の渡し舟をめがけて、
「おーい、よっちゃんよう」
俊寛もどきに舟を呼ぶ。呼べば答えるの距離は充分にある。
「友さんかい」
船ばたに現われた女人の一隊。その中でも一人が領巾《ひれ》をふる。
「よっちゃん――一足で後《おく》れっちゃったよ」
米友が叫ぶ。舟の中の女、
「ほんとに惜しいことをしたねえ、米友さん、もしかしてお前の姿が見えるかと、どんなに待っていたか知れなかったのよ」
「そうだろうと思って、一生懸命にかけて来たんだが、どうも、地の理がよくわからねえもんだからな」
「ほんとに残念だけれど、さよなら」
「さよなら」
「友さん――」
「おーい」
「お前、帰りには、きっとお寄りね、四日市で待っているからね。昨日話したろう、あの通り言って四日市をたずねて下さいね、待っているから、きっとよ」
「うーむ」
「嘘ついちゃいやよ」
「うーむ」
「そうして、それから二人で、間《あい》の山《やま》へ行ってみましょうよ、昔の人に逢ってやったら、さぞ驚くでしょう」
「うーむ」
「先生様にお願い申して、きっとお寄りよ」
「うーむ」
「帰りでいけなければ、お前、行きにお寄りな――ほんとうは、こっちから京大阪へ出る方が順なのよ」
「うーむ」
「じゃあ、きっとね、帰りにね」
こう言っている間に、舟は、隔たって行く。米友は、どう足ずりしても甲斐のないことを知る。
このところ、佐用姫と俊寛の生き別れ――波止場に棒の如く突立っている米友は、またまた死んだ者と、生きた者との区別がわからなくなってしまった。今の現在と、空想との境がわからなくなってしまった。
あの船で、あの女の子たちと共に久しぶりで帰って来た故郷の拝田村――お君が待ち兼ねている――
「友さん、どうしたの、わたしはこうして、さっきから待っているのに、それにどうしてお前、そんなに来るのが遅いの、なぜ前の船で来てくれなかったの、ごらんよ、この家を、お前の家を。二人が逃げ出した時のまま、そっくりじゃないの」
「おお、拝田村のおらが住居《すまい》よ」
「庭には鶏頭《けいとう》がある――ざくろがある、黍畑《きびばたけ》がある、鶏が遊んでいる、おお、おお、鼬《いたち》が出やがった、そら」
上《あが》り框《がまち》、鉄瓶、自在鍵――
「あの晩、わたしが、備前屋さんで、盗みの疑いを受けて、お前のところへ逃げて来たろう。そら、あの時のまま、そっくりじゃないの――」
「ああ、ムクがいない――ムクは、どうしたやい」
「まあ、友さん、あれから二人が夢中で山の方へ逃げましたね。あれっきり、この家へは帰らないでしょう。それだのに、お前、格別荒れもしないで、昔のままじゃないの。お上りよ、そんなに怖がることはないわ、もう今じゃ、土地の人、誰だって、わたしたちを疑ぐるようなものはありゃしない、みんな、むじつの罪だということがわかっているのよ」
「でも、ムクがいないね」
「どうしたろう、あの犬は、殺されちまやしないかね。友さん、お前、来るぐらいなら、どうしてムクをつれて来なかったの――」
「まあ、いいからお上りな、ムクのことは、あとで、ゆっくり探すとしましょうよ」
「どうしたの、友さん、そんなに棒のように黙って突立っていてさ」
「わたしじゃない、わたしをお前忘れてしまったの?」
「え、それじゃお前、まだあのことを根に持っているの?」
「わたしが、駒井の殿様のお情けを受けたのを、お前はまだ憎んでいるの、もう、いいじゃないの、もう、そんなことはお前、忘れてしまってくれてもいいじゃないの、おたがいにこうして故郷へ帰ったんじゃないの――ここで二人で、もう、昔の通りに仲よく暮らしましょうよ」
米友さん、
どうしたの?
どうしたというのさ、
黙って突立っていて……
怖いわよ――
まあ――
「おっと、あぶない、若衆《わかいしゅ》――」
後ろに船頭があって、留めることがなければ、米友はその時、波止場から海へ身を投げてしまっていたでしょう。身を投げるのではない、海へ落ちこんでしまったでしょう。そうして、この海をかち[#「かち」に傍点]渡りするか、泳いでか、とにかく、いま出た船を追いかけて乗るつもりであったでしょう。幸いに後ろに船頭があって、もうちょっとというところで、米友を抱き留めることができました。
「危ねえ――若衆」
つかまえた船頭も、この若者が身投げをするとは見なかったでしょうが、まさしく身体《からだ》の中心を失った途端を、見てはいられなかったでしょう。
危うく溺没を救われた米友は、
「ちぇッ」
舌打ちをして、踵《きびす》を返すと、あられもない方へ、走り出しました。
「おかしな野郎だなあ」
船頭が呆気《あっけ》に取られる。身投げをする柄でもないようだし、そうかといって、捨てて置けば海へ落っこちるところを助けてやったお礼も言わず、かえって、「ちぇッ」と舌打ちを一つして、そのまま、あられもない方へ、とっとと走り出した若い者の挙動を見て、呆《あき》れ返らないわけにゆきません。
そこで、米友は、全くあられもない方へ走り出してしまいました。
宮から名古屋へ、もと来た道を順に戻ろうというのでもなし。
その昔、机竜之助が半明半暗の道をたどって、東へ下ったそれ――
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「江戸へ八十六里二十町、京へ三十六里半、鳴海へ二里半」
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と書かれた道標の文字、そんなものも眼中には入らず、ただ、あられもない方へ、横っ飛びに飛んで米友が走りました。
横っ飛びに飛んでも、到底人間の至りつくすところの道はきまっている。人里が尽くれば原、原が尽くれば山、大きな川か水があって、それが尽くれば、その先はまた地続き、そうして、ついに行きとまるべきところは海――
日本の国は四方が海だから、米友の足を以てしても、幾日か飛ばし通しに飛ばせば、四海のうちのいずれかへ行き止るにきまっている。
幸いに、その行止りが存外早いことでありました。
当人は、どちらへいくら走ったか知らないが、ものの二里とは行くまいと思われる時に、パッタリと、またも一つの海に当面してしまいました。
海に当面して、右か、左かの思案を、きめねばならぬ境遇に立たせられていることをさとりました。右か、左かの思案をきめる前に、ここはどこの地点? ということを知っておく必要もあるが、それは急にはわからない。
五十三
そこで米友は、とある磯馴松《そなれまつ》の根方に来て、大の字なりに寝てしまいました。
誰か人が居合わせたら、たずねてみようとはしたらしいが、あいにく、見渡す限りのところには、人らしいものの影が見えなかったから、寝ている方がよいと思ったのでしょう。
杖も、荷物も、抛《ほう》り出して、磯馴松の下で仰向けに大の字に寝そべっていると、松の木の葉の隙間から青空が見えて、白い雲が漂う、つい枕辺では、ざざんざ、ざざんざと波の音がする。
いい心持でうとうとする、うとうとがかなりの熟睡に落ちる。眼がさめた時は、天地が灰色になっている。
あ、しまった! 寝過ごした。
杖を拾い、荷物をかつぎ取って、またも海も背負うて、人里をめざして走り出す。
「ちぇッ、お腹も空《す》いてきた、水を飲みてえな」
砂丘と草原とを行くと畑がある。その畑にさつま薯《いも》らしいのと、蕪《かぶ》と、大根とが作られてあるのを見る。
畑の前に立って、米友が暫く前後左右を見廻す――人あらば、請うて物を得ようとするつもりらしいが、あいにく、人がない。暫く佇《たたず》んでいた米友、この男には、鷹は死すとも穂をつまず、といった見識から来ているというわけではないが、一枝半葉といえども、人の物をただ取っては悪いということを知っている。その良心の鋭敏なることは、胃の腑が餓えていても、いなくても変りない。
だが、餓えと渇きとの非常である際に、必ずしも良心にそむかぬ方法と程度とに於て、胃の腑の窮乏を救ってやるということの融通は、乞食同様の旅をして歩いた経験のうちに、多少会得しているだろうと思われます。
「おーい」
と呼んでみました。
返事がない。
「おーい、この畑の持主の大将、さつま薯を三本ばかりおいらに恵んでくれねえか、それについでといっちゃあ済まねえが、蕪を一本な――」
あたりに響くだけの声で呼んでみたが、相変らず返事がない。
「ようし、一番」
米友は、懐中へむんずと手を入れて引出した巾着《きんちゃく》――それを御丁寧に用意の粗紙につつんで、畑の傍らの小松の上に置き、
「お貰い申しますぞ」
畑の中に分け入って、やにわに、蔓《つる》をたぐって、さつま薯《いも》の太いのを三本ばかり掘り取り――行きがけの駄賃といっては済まない、水気たっぷりの蕪《か
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