の買いっぷりを示したところの、養子の吉蔵というものであることがわかる。
 その近いところまで、大地をズルズルと引きずって来て、親方と枕を並べたところへ引据えると、それを打つ、蹴る、なぐる、翻弄《ほんろう》する、有らん限りの虐待を加えた後に、乱刀の下に刺し透し、刺し透し、蜂の巣のようにつきくずしてしまったらしい。
 宰領と荷かつぎの二人は、とうとうつかまえそこねたらしい。
 だが、その二人は憎しみの程度が浅い――まあこれで充分の溜飲を下げたというものだ。美少年を中にして、松林の中に引上げた一同――都合八名ある。
 瓢《ふくべ》を取り出して、水か、酒かを呑んで息をつぐ。
 お角の一行は、さながら昔の伊賀の上野の仇討の光景を、目《ま》のあたりに見せられたような気になって、ほとんど息をもつきません。
 その時に、松林の中での美少年が、一同に向ってこう言い渡しているのを聞きました。
「二人の奴を取逃がしたのは、いささか残念のようなものだが、その代り、予期しなかった二人の相撲を加えたから、差引き埋合せがついたとする。これで、我々の恨みも晴れ、面目もつないだようなものだから、諸君は、彼等が加勢の角力共がまた押しかけて来ない先――押しかけて来る勇気もあるまいが、来たところでなにほどのことはないが、道中筋の通行人と、役人たちが来合わせると事が面倒になり易《やす》い、よって諸君はあの屍骸を街道から取片づけて、即刻この場を退散し給え、そうして、なにくわぬ面《かお》をしておいでなさるがよい、あとのところは拙者が一切を引受けます……といって拙者も、彼等とつりかえに腹を切って申しわけをするほどの安売りはしないから御安心なさい、責めは一切拙者が引受けてこの場を立退きます。といえば諸君は、拙者の罪をかぶることを気の毒に思召《おぼしめ》さるるならんも、御承知の通りの拙者は、以前に人を斬って咎《とが》めを受けたことがある、それ故に、どちらにしても拙者はこの岡崎を立退かねばならぬようになっている、だから、君たちの罪を引受けるということが一挙両得になるのです――さあ、それがおわかりなら、諸君、急ぎお引取り下さい、今日のことに限っては、深いおとがめはあるまいと思われる、諸君も、なにくわぬ面《かお》をしておいでになるがよろしい。さらば御用意」
と、かいがいしく少年が立ち上りましたから、一同その意を諒したのか、かねて打合せもあったのか、別段にこだわらずに、少年の提言の通りに事が運んでしまいました。往来にある屍体は、田の中へ叩き込み、そうして、六七名の者は、そのまま散々《ちりぢり》に姿を隠してしまいました。
 少年は、そのあとで、矢立を出して、さらさらと何か紙の表に認《したた》めて、それを取りかたづけた屍体の上に置いて、髪の乱れと、衣紋《えもん》の塵を打払って立つところへ、お角が飛んで来ました。
 お角と、右の少年とが、そこでしばらく囁《ささや》き合っていたようですが、これも格別のこだわりなく、少年はお角に導かれて、松林の中へ入りました。
 そうして、すすめられるままに、しつこい辞退もせずに、お角の乗った駕籠《かご》に乗り込んだのはいいが、つづいて同じ駕籠に、お角があいのりをしてしまったのは、事情はとにかく、駕籠屋が少し面食いましょう。
 だが、お角は女のことであるし、少年は小柄のことであるし、両人合わせたからとて、その目方は到底一人の力士を乗せたほどのことはあるまい……
 そこで一行の駕籠が、朝まだきの活劇を一幕残して、東海道の並木の嵐を合方《あいかた》に、大はまの立場《たてば》も素通りをしてしまいました。

         五十一

 そんなことで、この一行は、その晩は鳴海《なるみ》へ泊ることになりました。
 強行すれば、宮か名古屋へは着けないではなかったが、万事この方が余裕があってよいと思ったのです。それに、鳴海、有松絞りといったようなところと、品が、女だけに、この一行を引きつけたのかも知れません。
 宿へ着いて――お角は、例の美少年を上座に招じて、委細の物語を聞きはじめました。
 その語るところによると、岡崎藩でも武術の家に生れ、去年のこと、朋輩《ほうばい》と口論の末、果し合い同然のことをやり出し、相手を傷つけて死に至らしめたが、表面は穏便《おんびん》につくろっておいてもらったけれど、今後の場合、かりにも刀を抜くような振舞がある時は容赦せぬ、との厳しい父の言いつけを蒙《こうむ》っていたこと。
 しかし、天性、利発で、侠気があって、腕が優れているというところが、どこまでも祟《たた》るらしい。
 今度も、昨日の名古屋者のために、かりにも自分の藩中の者が、大恥辱を曝《さら》して帰ったということを聞き、それが自分の友人関係でもあり、一藩の恥辱にもなるという義憤が燃え、そうして、自分が指揮者の地位に立って、ついに今朝の事件を決行してしまったということ――それをかなり爽《さわ》やかな弁舌で説き出しましたから、お角が全く感心してしまいました。
 実は、自分も昨日、赤坂を越えて藤川河原の相撲場の喧嘩は、一から十まで見ていましたが、あなた方としては、已《や》むに已まれぬものがお有りになったろうと御推察申します。
 お角は、この人たちの復讐心を是認したくなって、この少年の義気と、勇気とに、ほんとに舌を捲かせられました。
 だが、苦労人のお角としてみると、その隙間《すきま》のあんまり無さ過ぎるところに、なんだか大きな隙間があるように見えてならぬ。今の年で、これほど隙間のない若い人が、このまま出世したらどんなにエラくおなりだろう。出世しないとしたら、どんなに抜けて行くだろう。お角はそれを考えざるを得ませんでした。それを考えた時に、思わずこの少年の将来のために、祝福ばかりはしていられないように感じました。
 子供のうちは鷹揚《おうよう》なのがよい。少しは馬鹿といわれるくらいでも、間の抜けたところのある方が、あんまり隙間のないのより望みがあるものだ。子供の時に、あんまりきちょきちょ[#「きちょきちょ」に傍点]したのはいけない――というような先入的の頭を以てこの少年を見直すと、隙間のないところに、真黒い影が漂っているではないかとさえ思わしめられます。
 全く、そうです。男がよくて、腕が立って、気が利《き》いて、年が若い――と来ている。白井権八がそれではないか。それよりも、もっと手近に、もっと大物、あの日本左衛門というのが、たしかこの附近から出ていたはず――聞くに、日本左衛門という男の出発点も、この少年に似通《にかよ》ったところから、その長所がすべて、悪用されて、あたら有為の大材になるべきものが、あんなことで終ってしまったものではないか。
 お角は、ついこんなことまで気が廻ったものですから、改めて、応対話にかこつけて、意見のようなことを言いました。
 将来を大切になさること、御修行中は、もう決して腕立てはなさらぬこと、頼まれても引受けぬようになさるべきこと――つまり、すべての所行というものを封じて、当分、勉強なさって、御帰参の時を待つか、そうでなければ大都会で、もう一修行なさることを望みます、というようなことを言って聞かせました。少年にはこの言葉がわかるらしい、決してこの教訓を、内心で舌を吐いて聞いているのではないらしい。
 やがて、今後の身の振り方というようなことになって行くと、今朝の出来事は、藩の諒解を得てやったことではないにきまっているが、その事の結果は、藩の面目のために戦ったことにもなるから、藩の方でも、他の罪人を追究するように厳しいことはすまい、まあ、当分、足を抜いていさえすれば、おのずからほとぼりも冷めて、相当期間の後には、無事、帰参のできるようになるにきまっている。それまでの間、知人もあるから当分、名古屋へでも行ってみようというようなことを、極めて軽く取扱っているから、お角が、そこでも、少し考えて、くさび[#「くさび」に傍点]を打ってみました。
 なるほど、それはそのように、わたしたちにも思われますが、なお思い過ごしをしてみますと、一藩だけの間の出来事ならばともかく、相手は他藩、ことに御三家の一なる名古屋藩の城下の者――たとえ士分の者でないとはいえ、相手は御三家のお膝元の者、ことに二人は仕留めたが、二人は逃がしてしまっているから、先方の証人に不足はない、正式に藩から藩へのかけ合いでもあった日には、そう、あなたのお考えになるほど、事は単純に参りますまい。
 ことに、あなたが、これから名古屋でお住まいになるとすれば、敵の中で暮らしているようなもので、油断はできないと思います。
 こんな注意をお角から受けると、なるほど、そう言われると、それはそうかも知れぬ、自分がこれから名古屋城下に落着こうという考えは、少々軽率であったかも知れない、では、改めてどうしよう――さすが利発な少年が、少々迷いはじめて来たようです。
 そこで、お角は、当分の間、江戸へでも行ってみたいとのお考えならば、適当の隠れ家を御紹介して上げましょう――いっそ、このまま、名古屋をつき抜けて、自分たちと一緒に京大阪から金毘羅《こんぴら》までも……とまでは言わず、いずれその辺は今晩にも、ゆっくり御相談を致しましょう、お疲れでございましょうから……お風呂をお召しになって、お休み下さい。
 こう言って、かなり長い時間の二人の会話は終り、少年を先に風呂へやって、さあ、これからお銀様へ御機嫌うかがい……ということになると、自分はあんまり少年との話に身が入り過ぎ、時間がかかり過ぎたりしたことを気がつきました。それは同時に、今までは下へも置かなかったお銀様を、今日はじめて閑却していたというような形になるのです。
 座敷を隔てたお銀様の間へ伺候《しこう》してみたが、そこに尋ねる人がおりません。身の廻りの物はすべて、そのままにしてありますけれども、御当人がおらず、宿ですすめた茶碗の中の茶もさめきっているのを見ると、お角はなんとなく荒涼たる思いがしないではありません。
 ああ、つい、うっかりお嬢様の御機嫌をそこねたか知らん、この心がかりが、お角ほどの女の胸をヒドク打ちました。
「お嬢様は……」
 誰に聞いてみても知りません。お角はやや甲高《かんだか》い声になって、
「六さん、お前、なんだって、お嬢様におつき申していないんだエ」
 甲州附の従者も叱れないから、自分の従者をドナリつけてみました。
 宿の女中に聞いても知らない――
 お角は、そこで胸を打ちました。
 本来、ちょっとの間、当人の姿が見えないからとて、そんなに胸を騒がせたり、人を叱ったりするほどのことはないのですが、ナゼ、お角ほどの女が、面《かお》の色を変えるほど狼狽《ろうばい》を見せたのか。
「ちぇッ、わたしといったら、自分ながら業が煮えてたまらない、一から十までわかりきっていながら、いい年をして、ついこんな抜かりをしでかすなんて、愛想がつきたものさ、ここを押せばここがハネるくらいのことを、御存じないお角さんじゃないのに、ちぇッ、いやになっちゃあなあ」
 こう言って、お角は、焦《じ》れったがって、お銀様の前で使う、あそばせ言葉とは全く違った地金の棄鉢を見せました。
 だが、その地金の棄鉢も、今日は、周囲に当り方が軟らかいのは、つまり、焦れったがりこそするが、その失策の責めは、誰にあるのでもない、自分にあるのだ、この年甲斐もないお角さんというあばずれが、存外甘いところを見せちゃった、そのむくいだよ――
 お角のように、目から鼻へ抜ける女にとって、お銀様のここにいないということの、心理解剖ができないはずはありません。
 美少年と、無遠慮に駕籠《かご》に相乗りをして来たこと、宿へ着くと早々、お銀様を閑却して、かの美少年と長時間水入らずの会話をつづけたこと、この二つがお銀様の、あんまり曲っていないつむじを、曲らしむるには余りあること。
 それをいまさら気がついたから、お角は、自分の甘ったるさ加減を、噛んで吐き出してやりたいほど腹立たしくなったに相違ありません。

 お銀様が誰に
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