いよいよ強気になり、
「さんぴん、これでも斬れねえか」
 いきなり、平手で、さむらいの頬を打ちにかかったものだから、もう破裂、二人がさっと抜いてしまいました。
「抜きやがったな、しゃら臭《くせ》え」
 松五郎が石を拾って目潰《めつぶ》しをくれる、それを合図に、身内の若いのが、同じように目つぶしの雨を降らせる。
 芸妓連は、悲鳴を上げて逃げるのもあれば、遠くから石を投げて助太刀《すけだち》のつもりでいるのもある。弥次の石が、飛びはじめる。
 それから後の乱闘と、二人のさむらいの立場は見るも無惨なものです。
 抜きは抜いたが、もう、すっかり度胆を抜かれているところだから、日頃学んだ剣術も、さっぱり役には立たない。松五郎の身内に追い詰められて、弥次に逃げ場をふさがれ、やがて抜刀を奪い取られて、しばらく組んずほぐれつ、河原でこね合ってみたが、やがて、思う存分の手ごめに遭って、袋叩き、石こづき、髪も、面《かお》も、めちゃめちゃにかきむしられて、着物も、袴も、さんざんに引裂かれ――その後に、帯刀は大小ともに鞘《さや》ぐるみ奪い取られてしまって、ついに半死半生の体を、河原へかつぎ込んで、河の中へ投げ込まれてしまったのは、全く見ていられない。暫く、浅い川の中に、浮きつ沈みつしていた件《くだん》の若ざむらい二人は、それでも命からがら起き上り、向うの岸へのたりついて、這《は》い上り、水びたしになり、打擲《ちょうちゃく》に痛むからだで、びっこを引き引き向うの道へ、のたりついて行く、その姿が消えるまで、衆人環視の間にさらされたのは、自業自得とはいえ、悲惨の極みといわねばなりません。
 それを、ザマあ見やがれ! という表情で見送っていた料理屋連――その親方は、二人の悪ざむらいから奪い取った大小をからげて、
「こいつは、会所へ届けておかにゃならねえ」
 荷かつぎに持たせているところへ、贔屓《ひいき》の相撲連がやって来て、そうして彼等一同は、やはり勝ちほこった気持に充ち満ちて、相撲小屋の方へ引上げてしまいました。
 一切の事情を、目《ま》のあたり見ていたお角さん――いよいよいけないと思いました。筋から言えば、道理はこちらにあるに相違ないが、お角の眼では、料理屋連の出ようが、やり過ぎていること――これがこれだけで済めばいいようなものの――済むはずがない。それを存外、買方は気にかけていないようだが、さあ、この後日がどうなるかと、お角は他事《よそごと》でないように案じました。

         五十

 聞いてみると、二人の若い悪ざむらいは、岡崎藩の者だそうです。
 東照権現誕生の地――五万石でも城の下まで船がつく、とうたわれた岡崎様の家中も、こんな若ざむらいばかりではあるまいから、後日が思われる。
 ところで、この一場の争闘が、さしもの相撲興行を、ほとんど入《いれ》かけにするほどの騒ぎになったから、お角、お銀様の一行も、角力見物《すもうけんぶつ》はそのままで打ちきって、もと来た方へ戻ることになりました。そうして、その日のまだ高いうちに、無事に岡崎に着いて、桔梗屋というのに宿を取り、その翌朝も尋常に出立して、岡崎城下を新町から、日本一の長い橋と称せられた二百八間の矢作《やはぎ》の橋を渡って、矢作から西矢作の松原へかかった時分に、不意に、お角の駕籠《かご》の棒鼻がおさえられてしまいました。
「その駕籠、少々待たっしゃれ」
 女長兵衛の格で納まっているお角が垂《たれ》を上げて見ると、棒鼻をおさえているのは、権八よりはまだ若い、振袖姿のお小姓らしい美少年が、刀の鯉口を切って、
「御迷惑でもござろうが、おのおの方におたずね致したい、お控え下さるよう」
 棒鼻をおさえての申入れが、事有りげではあったが親切でしたから、女長兵衛も、お若けえの、お控えなせえとも言えず、神妙に、
「何の御用でございますか」
 駕籠から出て挨拶をしようとするのを、
「いいや、そのままで苦しうござりませぬ、そのままでお尋ね致したいが、あなた方は、いずれへおいでになりますか」
「はい、わたくしたちは、江戸から参りました者、名古屋まで参る途中のものでございます」
「御婦人と見受け申す、して、その後ろのお方は……」
「あれは、わたくしの主人でございます、やはり女でございます」
「お二人とも、女子《おなご》づれ、しておともの衆は、この三人だけでござるか」
「はい、六に、松に、芳……三人でございます」
「三名ともに、江戸から御同行でござるか」
「はい、二人だけは甲州から連れて参りました」
「近ごろ、ご無礼の至りなれど、一応、後ろのお乗物の中のお連れにお目通りがしたい、拙者は岡崎藩の中、梶川与之助と申すもの、友人のために黙《もだ》し難き儀があって、人あらためを致さねばならぬ次第により、枉《ま》げてこの儀をお願い致す」
「ご挨拶恐縮に存じます、どうぞ、充分におあらため下さいませ」
と言って、お角は駕籠《かご》を出て来て、お銀様の乗った駕籠のところまで、右の美少年を案内して来ました。
 事実をいえば、お角は、お銀様の乗物を、人にあらためさせたくはないのです。お銀様もまた、なによりも人に見らるることを嫌うのを心得ているのですが、この場合、相当に条理のありそうな、この士分の者のあらためのかけ合いを、素直に聞いてやらないのは、かえって不利益だとさとりました。
 お銀様があらためらるることを快しとしないだけで、憚《はばか》りながら我々の方は、さかさにふるってあらためられたところで、後暗いことなんぞは微塵もないのだ。そこでお角が、お銀様の乗物に向って、
「お嬢様」
「はい」
「お聞きの通り、岡崎様の御藩中の方が、なんぞ人あらためをなさりたいとの思召《おぼしめ》しでござります」
「はい、どうぞ、御自由に。なんならそれまで、罷《まか》り出でましょうか」
 お銀様は、動ぜぬ声で答えました。
 その声を聞いただけで、岡崎藩の美少年は納得したようです。
「いいや、そのお声で、たしかに御女性とお察し申します、乗物をお立ち出で下さるには及びませぬ、一応、御旅切手だけを拝見お許し下さるよう」
「心得ました」
 お角はお関所切手を取り出して、美少年に示すと、美少年は篤《とく》と見了《みおわ》って、充分に理解が届いたと見え、
「これは近ごろ、ご無礼の段、お許し下さるよう、どうぞ、そのままお通り下されませ」
「こちらこそ失礼をつかまつりました」
 お角はこう言って挨拶をして、再び駕籠の中に納まりましたが、これより先、早くも胸に思い当るところのものがありました。
 当然――これは昨日のあの相撲場の喧嘩のなごりだな……
 どのみち、あれだけでは納まりのつかない後日があらねばならぬ。実は昨夜の泊りから、今朝まで、それとなく、噂《うわさ》に耳を傾けていたのだが、さっぱり静かなものであるのを、むしろ意外としていたくらいのものでありました。
 あれで、あの若ざむらいたちは泣寝入りかな、身から出た錆《さび》だから、誰を怨まんようはなきものの、このままで空々寂々では、あんまり張合いが無さ過ぎる――と、お角もなんとなく拍子抜けがしてここまで来たところだから、ここで棒鼻をおさえられた時分に、ハッとそのことに思い当ってはいたのです。
 自分たちの駕籠をおさえて、人あらためにかかったのは、右の美少年ひとりだけだが、行手の松林の中に相当の人数が控えている、これは愚図愚図していると人違いの災難を受ける、そこをお角が感づいて、先を越して早くも素姓《すじょう》を露出して見せたお角の機転もさることながら、この美少年が、年に似合わず落着いて、ハキハキした応対ぶりに感心させられないわけにはゆかぬ。再び動き出そうとした時、その美少年は再びさしとめて、
「あいや、憚《はばか》りながら、もう一度、お乗物をお戻し下さい。実は、拙者、ただいま思案いたしたところによりますると、この先、また、我々同様のものあって、お乗物に御無礼を致さぬとも限らぬ――つきまして、ここ一刻ほどの間、あれなる松林の中にて御休息あってはいかがでござろう、そのうち、我々の求むるところの目的が果されさえ致すことならば、次の駅まで人を以てお送り申し上げてもよろしい、暫時、あれなる松林にお控え下さるまいか」
 その申入れをお角はことごとく受入れて、この一行は道を枉《ま》げて、その松林の中の松の木蔭のほどよいところに駕籠を置き、そこでしばらく休む。
 一行を、ここへ導いておいてから、右の美少年は、再び街道へ取って返しました。
 果して、これは昨日の喧嘩の引返し幕だ、しかもこの幕が本幕だ、これはお詫《わ》びでは済まない、わたしたちは、見ようとしても見られない本芝居を、見せられる羽目となった。
 ほどなく――二挺の駕籠が――その駕籠と従者との並木から現われたのを見た瞬間、松林の方からバラバラと姿を現わして、さいぜんの美少年のところまで走《は》せつけた三人の者。
 そのうちの二名は、たしかに、昨日の藤川河原の立者《たてもの》の再現であることをお角は見誤りません。
 自分たちにしたのと同様に、まずその美少年が棒鼻をおさえると、駕籠の中から転がり出した一人の男。
 それは遠目で見てもわかる、小肥りにして丈の高いかの料亭の親方。たしか名古屋の河嘉の松五郎とか名乗っていた、その男に違いない。駕籠から転がり出して、美少年に武者ぶりついたところを、早くも美少年の刀が抜かれて、一太刀浴びせたようです。
 一太刀斬られて腕を打ち落され、後ろへひっくり返るところを、
「昨日の無礼、覚えたか」
と言ったその声が、お角のところまで透るほどです。よくよくの恨みをこめたためでしたろう、さまでの大音ではなかったが、キリキリと歯ぎしりする音までが、お角の耳にまで聞えたようです。
 それから後、走せ加わった都合五六名ほどの者が、
「僭上者《せんじょうもの》、無礼者、憎い奴、身の程知らず、これで思い知ったか、岡崎武士の手並!」
 寄ってたかって、骨髄に徹する恨みのほどを乱刀の下に、柄《つか》も、拳《こぶし》も、透《とお》れ透れと、刺しこむのです。
 残忍至極だが、昨日の結果としては、是非のほど、何とも言えない!
 これは実に瞬間の兇事でしたが、次の瞬間には一行の駕籠屋が逃げ出すこと、昨日の鼻っぱしの非常に強かった身内の者と、宰領と、荷持が、度を失って逃げ惑う。
 それを追いかける者――
 その時、後《おく》ればせに走《よ》せつけた見慣れない大男――刀を横たえ、息せききって来合わせたのをお角が見ると、ははあ、相撲取だと思いました。
 相撲取だ――とすれば、この一行の贔屓《ひいき》相撲が心配のあまり、あとから追いついて来たのか、そうでなければ、一緒に護衛の任に当って来たのが、一足後れたのか、ともかくも、こちらの味方でなく、先方の後詰《ごづめ》の形で現われたということをお角が見て取っていると、右の相撲は刀を抜いて、ひとり立っている美少年の方に向い、一人は手に携えていた太い棒をグルグルと振り廻して、逃げ惑う味方を追っかけている武士方に立向う。
 美少年に立向った力士は、一太刀合わせるまでもなく、小手を切り落されて、よろめきよろめき後へさがるところを、小溝へつまずいて、後ろへ倒れたまま、パッと水を飛ばして、姿は再び現われないから、多分、溝が狭いのに、身体《からだ》が大きかったものだから、すっかり食い込んで、動きが取れないものと見える。
 一方、大木を振りかざした一人の力士は、五人の行手にふさがってみたが、この五人の武士たちの勇気は、昨日の川原の光景とは打って変った鋭いもので、かいくぐり、かいくぐりして、とうとうその力士をも乱刀の下に仕留めてしまう。
 さて、親方を見殺しにして逃げた三人の者、その一人は親方の養子――他の一人は宰領、他の一人は荷かつぎ。
 美少年ひとりだけが現場に残って、あとは、透かさず三名の恨みの片割れを追撃しに出かけて行ってしまいました。
 まもなく、彼等が、一人の若い男をズルズル引きずって来るのを見る。
 それが、昨日、親分にも負けない喧嘩
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