、先生、ただ一つ、おかしいことがございます」
 圧迫に堪えきれぬお雪は、ついに自分の指で、乳房にかかる竜之助の手を遮《さえぎ》るように押えて、向き直ろうとしましたが、その蒼白《あおじろ》い面《かお》が、肩の上に迫っているのを感じて、前後から銀山で押しつけられているような心地になりました。
「この夜中に、どことも当てもなく提灯《ちょうちん》が一つこの家から出て行きました、あれ、あの通りまた出て参りましたよ」
 一旦、谷間に隠れてしまった問題の提灯は、この時、また姿を現わしました。
 そうして、おもむろにこちらへ向いて戻って来る気色は確かです。
 お雪は、前後に圧迫の思いを以て、その提灯を見つめています。
 提灯は極めて静かに小径《こみち》を歩いて、段を上り、こちらへ近づいて来る。お雪は恐怖と幻怪の中に、今度こそは、その正体を見届けてやろうという気になりました。
 物怪《もののけ》でない限り、提灯だけが一つさまよい歩くという道理はありません。提灯はまさしく人の手によって携えられていればこそ、提灯としての通行があるので、今度こそは、提灯と、その主とが、明らかにお雪の眼に見て取られます。以前は軒端をめぐって滝の下を行ったものだから、提灯の隠見することだけが見えたのが、今度は直《じ》きに小坂を上って来るものですから、それで明らかに提灯も、その主もわかったものです。
 そうして、それがなお一歩一歩と近づくのを見ているうちに、足の歩みのたどたどしいのも道理、この提灯の人は、片手に鏡のような水を満たした手桶を提げている、ということが明らかとなりました。
 ああ、水汲みにいったものだ、軒下に貯えの水がなくなったから、わざわざ谷川まで水を汲みに行ったものだ。そうだとすればなにも、恐怖も物怪《もののけ》もあるべき筋ではない。月は明るいけれども、足許の用心のために特に提灯を用意したまでのことだ――とお雪も、やっと合点がゆきました。
 けれども、なお残る不審は、どうしてこの夜中に、わざわざ谷川まで水を汲みに行かなければならなくなったのだろうという事、どなたかが勉強のために夜ふかしをして、お茶が少し上りたくなって、茶釜を見たが水が無い、瓶《かめ》を見てもあいにく――外の筧《かけひ》は氷っている、やむを得ず、谷川まで御苦労をしたと思えば思えないこともない。多分、そんなことだろうと想像しておりました。
 だが、わざわざこの深夜、水汲みにおいでになったのはどなた、それもお雪の気にかかりました。
 今しも上って来る人は、頭に笠をいただいておりましたから、人柄はさっぱりわかりませんが、かなりたどたどしい足どりであります。桶に満たした水が、月にかがやいてさざ波を立てながら銀のように動いているのを見ると、お雪は風流な姿よと思いました。水たまらねば月も宿らずと、口ずさんでやりたいような気分になりました。
 でも、その当人が、この宿に冬籠《ふゆごも》りをするうちの誰? ということは、笠がかくしていて判断の余地を与えません。
 そのうちに、だらだら坂を上りつくして、右の水汲みは、疲れを休めるためにや、手桶を後生大事に下に置いて、ホッと一息ついている体《てい》です。
 その時に、高欄の上から廂《ひさし》へかけて、カラカラと音を立てて、凍《い》てついた土に落ちたものがあります。
 お雪はハッとしました。自分の手に持っていた数珠《じゅず》が、スルスルと自分の手首から抜け落ちて、カラカラと廂を走り、力余って、凍てついた大地をまたも、カラカラと走って、桶を置いて休んでいた人の足許まで、走って行ったことであります。
 お雪ちゃんはハッとしました。ふだん、数珠なんぞを携えているわけではないが、その時は、無意識に、自分の手文庫の中に文鎮《ぶんちん》同様にして置捨てにしてあった数珠を、何かのハズミで、手首にかけて、今持って出ていたのだということを、数珠が走り出したので、はじめて気がつきました。
 お雪はハッとしたでしょうが、それよりも一層驚かされたのは、足許に物の落された水汲みの主で、落ちたその物を注視するよりは、高欄を見上げることの方が先でした。
 見上げるところの三階の亜字の高欄には、たしかに人が立っている。御承知の通りの隈なき月夜のことだから、それを見まごうはずはありません。
 但し、その人影が一つであったか、二つであったか、一つ一つが重なっていたのだか、そうしてその人がいかなる人であったかは、わからなかったようです。ただ、天上に人ありという意外の驚異で、しばらく、ふり仰いで、高欄の上から目をはなすことができませんでした。
 二人が深夜の楼上にこうしているところを、下から見られたのが、二人にとって幸か不幸かはわかりませんが――下なる人の正体をある程度まで見定めるには、これが上なる人――お雪ちゃんにとってはよい機会でありました。
 笠を阿弥陀にして、ふり仰いでいるその人は、いやでもその面影《おもかげ》の全面を上へ向けなければなりません。そこへ、なおこちらに幸いすることには、月光が上から照らしつけてある上に、その当人の腰にさしていた提灯というものが、向うから推輓《すいばん》するように、ほとんど隈なく輪郭を照らしてくれました。
 その時に、お雪は、二重三重の意外に見舞われて、胸を轟《とどろ》かすことが加わってしまいました。
 笠のうちなる人の面影は、今まで全く見なかった人です。ここに冬籠りをして熟しきっている同宿の人たちのうちの一人でないことは勿論《もちろん》――先般来、出入りして、相当の波瀾と印象とを残して行った二三の人たちの姿でもありません。
 全く別な、全く新しい人――一眼見てまぎろう方なき、あざやかな印象――お雪が、一も無く二も無く感じてしまったことは、その人の面影を、どうしても女とよりほかは見ることができなかったからです。
 男の眼では間違いということもあろうけれど、女が女を見る眼には間違いないと、お雪は直覚的に信じてしまったのです。
 さあ――この白骨の温泉の今までの冬籠りには、女というものは自分のほかには絶対になかったはず。
 呼ぼうということも、来るということも、誰人のおくびにも出てはいなかった。たとえ、呼んでも、招いても、自分たちのように夏の時分から来ているならば格別、今のこの際に、女の身でここへ来ること(冒険の男でさえも)は、全く不可能であると信ぜられていたのです。
 この人が女ならば、いつ、どうして、誰が連れて来た。もっと以前に連れて来て、誰か隠して置いたのか――それは、どちらにしても容易ならぬ事だ。
 と、お雪の胸が兢々《きょうきょう》としました。
 しかし、その場の光景はその瞬間だけで、下なる人は直ちに面《かお》を伏せて、軽く足許に落ちた数珠を掻《か》き寄せると同時に、右手は手桶にかけて、難なく水と姿のすべてとを家の中に運んでしまいました。
 幻怪にもせよ、恐怖にもせよ、幻怪でも恐怖でもなく、ただ人あって水を汲みに出たという平凡極まる光景であったにせよ、眼前のその事は、それでひとまず解決しましたが、それと同時に、背後の圧迫のゆるやかなことを感ぜずにはおられません。

         四十七

 その夜の寝物語に――といっても、襖一重の明け開いた隔ての間で、竜之助とお雪とが、こんな話をしました。話はむしろ、お雪の方から持ちかけたものです。
「ねえ、先生、いつまでもこうして、白骨にばかりもおられませんわね」
「でも、こんなところで、一生暮してもいいと、お前は言ったではないかね」
「一時はそう思いましたけれども、ここは、わたしたちだけの天地ではありませんもの」
「我々だけの天地というものが、別に造られてあるはずはないのだ」
「それはそうですけれども、温泉だけに、人の出入りが絶えませんわね、誰も来ないはずの冬の白骨へ、やっぱり、思いがけなく、いろいろの人が出たり入ったりするものだから、わたしは危なっかしくて、このごろはほんとうに落着かなくなりました」
「といって、冬が終るまでは、動きが取れないことになっているではないかね」
「いいえ――あんな見知らぬ人が、今晩も入って来るくらいだから、出ようとすれば、出られない限りもないと思いますわ」
「そうか知ら、そこで、お雪ちゃん、お前も、もう白骨にあきがきて、家へ帰りたくなったのか」
「いいえ、そういうわけではありませんけれど、ここがなんとなく不安になりました。ねえ、先生、今のうちに白骨を立ってしまいましょうか」
「そうして、どこへ行こうというの」
「それはね、一つ、わたしに考えがありますのよ」
「その考えというのは?」
「まあ、お聞き下さい。わたしは少しでも、ここへ来た甲斐があって、第一、先生のお目のだいぶよろしくなったとおっしゃるのを喜ばずにはおられません。それに、わたくし自らも、ここへ来たために、いろいろの学問を致しました、ずいぶん、ためになりました。ですから、白骨へ来たことは全く後悔にはなりません。けれども、もうこのぐらいが、切上げ時じゃないかと思います。今までも、思いがけない人のごたごたがありましたけれど、ともかくも、おたがいに無事で今日まで参りました、この上いい気になって逗留していると、ためにならないことが起るような気がしてなりません。ですから、別のところで、あなたの充分御養生になれるようなところを選んで、それはここよりは、一層静かで、人事のごたごたのないところへ行って、春まで暮してみた方がよいのではないかと、そんな気がしてなりません」
「なるほど……それも一理のある考え方だが、といって、ここを立って、別にいいところがありますか」
「それはありますとも、いくらもございますよ。第一、この谷を後ろへめぐって飛騨《ひだ》の国へ出ますと、平湯《ひらゆ》の湯といって、いいお湯があるそうです」
「なるほど」
「そこは山国は山国ですけれども、こんな迫った谷間《たにあい》ではなく、もっとゆったりした……気分のところだそうでございます。それよりも、もっと面白いところは、それより奥へ行って、やはり飛騨の国の白川郷《しらかわごう》というところがあるそうです、そこは全くこの世界とは交通の絶えたところで、人情も、風俗も、神代《かみよ》のままだとか聞きました。その白川郷の話を聞いた時に、私はそんなところに一生を住んでみたくてたまらなくなりました」
「聞いて極楽、見て地獄ということは、世間にありがちのことだから、正直なお雪ちゃんが、うっかり聞いたままを信ずると、後に大きな失望をするに違いない」
「いいえ、それとは比較が違います、白川郷というところは、悪いところであろうはずがないことがよくわかりました、そうしてわたしは、なにもかも一切あきらめて、その白川村へ入ってしまった方がいいのじゃないかと、ずっと以前から思案しておりました。それは久助さんに話せば、むろん、賛成はしません、誰だってほかの者が承知をするはずはありませんけれど、わたしは、それがいちばん、わたしたちのこれからのためによい道ではないかと、思い定めていましたからお話をするのです」
「そうかなあ」
「ねえ、それですから、先生、あなたさえ御承知くだされば、明日にもこの白骨を立ってしまいたいと思います」
「誰にもことわらずに?」
「ええ、あなたと二人だけで」
「駈落《かけおち》をするのだな」
「駈落というわけじゃありませんけれど、誰かに言えば、キット留めますもの」
「では、それも一思案として、どうしてここを出ますか。お雪ちゃんだけは、出られるとしても、相手を連れ出す手段がありますまいね」
「それは、あなたさえ御同意くだされば、きっとできると思います、時々、あちらから入り込んで来る猟師さんたちに、そっと頼んでみても話がわかってくれるだろうと思います」
「うむ――そうかなあ」
「先生、よくって、あなたが御同意をして下されば、わたしは今日から、その実行にかかります」
「さあ、いよいよとなれば一大事だ」
「いいえ、一大事ではございません、万が一、間違っても、牢破りをするのとは違いますもの、
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