いうのを校訂していると、
「北原さん、お客様でございます」
「え!」
北原は愕然として筆を措《お》きました。
「お客様がお着きになりまして、今、おすすぎをなすっていらっしゃいます」
「誰ですか」
「尾張の名古屋の紅売《べにう》りだとおっしゃいました」
「来た、来た! 先生、伝書鳩の効能がかくも的確とは予想外でした……お雪さん、どうも有難う、いま行きます」
「どう致しまして」
室の外で北原に取次だけをして、姿を見せないで行ってしまったのはお雪ちゃんです。
北原賢次は、良斎を残して、とつかわと出て行ったが、暫くして、北原はその名古屋から来た紅売りというのを伴うて、浴槽の方へ行った様子。浴槽の中でも、いつもとは違って、極めてしめやかに、話し込んでいると見えて、時々、湯の音がするだけのものでした。
湯を出てから、再び、以前の校訂室へつれて来るかと思うと、そうではなく、別に己《おの》れの室へ連れて来て、そこで、また、極めてしめやかな話しぶりです。
夜になると、例によって、炉辺閑話が賑わい出してきましたけれど、北原は面《かお》を出さないくらいですから、今日訪ねて来たという新来の珍客、名古屋の紅売りというのを、つれ出して、炉辺閑話に新しい興を添えようとするでもありません。
こんなことは、すこぶる違例で、それでも少なくとも池田良斎あたりには引合わしたろうと思われるが、良斎もすまし込んでいるものだから、紅売りという者の正体がまだわかりません。
かくて、その夜は更けて行きました。
その夜の白骨谷は満眼の月でありました。
三階の亜字の欄《てすり》に立って、月にかがやく白骨谷を飽かず見入っているのはお雪ちゃんです。人は全く寝しずまって、物の気というものはありません。
お雪は、つくづくこれを美しいながめだと思います。
美しいだけでは言い足りないと思います。なんだか、悲しいような、奥深いような、言うに言われぬ心持で、白骨谷の深夜を、ひとり愛して、やみ難いことがしばしばあるのであります。
この地上には、人間に隠されたところの秘境が、いくらもあるということを、このごろほどしみじみ感じさせられたことはありません。
多くの人は、白骨谷は人間の冬来るべきところではないと言いました。土地の主さえも、冬は逃れて里へ帰るところだと言いました。
それだのに、この美しい景色は、どうでしょう。それも、冬がようやく迫って来るほど、昼よりも宵、宵よりも、この深夜の月の澄んだ時ほど美しさが増して行く。
今は、どうでしょう、人去り、時更けて、この骨まで凍る白骨谷のつめたさ。
この美しい、つめたさを、自分ひとりだけがながめつくす特権がうれしい。冬籠《ふゆごも》りをする人だけに、この広寒宮《こうかんきゅう》のながめが許されるのに、お気の毒なのは、せっかく、許された特権を抛棄《ほうき》して眠っている人たち。
起して見せてあげたいが、そうしない方がよい。慾ばりのようだが、これだけは、わたし一人占めにして、誰にも見せないことにしておきましょう。
先日も、このことで、弁信さんへの手紙を書いたことでした。
その手紙の中に、白骨谷の深夜の景色に拙い描写を試みた後、こんなことを書き伝えた覚えがあります、
[#ここから1字下げ]
「弁信さん――
風景というものは、人間に見せるために出来ているものではないということが、このごろになって、やっと、わたしにわかってきました。
今まで、私は、美しい花だの、キレイな鳥だの、屏風《びょうぶ》を立てたような山や、波のように音を立てて流れる川、みんな、自然――が人間をなぐさめてくれるために出来ているものとばかり思って、それとお友達になったつもりで慰められて来ましたが、このごろになって、ようやく、本当のよい景色は、人間のために作られているのではない、ということがよくわかりました。
冬になっての、夜更けての、白骨谷の景色というものの、美しさを、弁信さんにひとめ見せてあげたら、きっと、わたしの言うことをわかって下さいます。
毎年、夏から秋にかけましては、白骨へ入湯に来るお客もたくさんございますけれども、冬の白骨を知っている人はないのです。知っている人があっても、冬の夜更けての白骨谷に、こうまであこがれているのは、古来――(ずいぶん大きな言い方ですけれども御免下さい)わたしひとりだけなんでしょう。
冬が深くなり、人が絶えてくるほど、景色はよくなって参ります。
まして――これから上の乗鞍ヶ岳や、穂高ヶ岳や、槍、白馬、越中の剣山の上あたりの今夜の月の景色は、どんなでしょう。それはただ想いやるばかりで見ることはできません。わたくしに見ることが許されないだけではなく、人間というものには、誰にも許されないところに、いよいよ本当の美しい景色が現わされてあるに相違ありません。
わたくしたちが住んでいる、地上にさえその通りですから、あの天上のお月様――とお星様の世界には、どのくらい、美しいところがあるか、それはもう想像も及ばないことでございます。地上にも、天上にも、わたくしたちには見つくせない景色が、いよいよ隠されていることを思うと、自分ができるだけそれを探りたい喜びを感ずると共に、人間の力では及びもないことも考えさせられて、泣きたくなることもございます。
ずいぶん、夢を見ます、高いところへ登った夢も、見なれないものを見せられた夢も――夕べの炉辺で聞いた山家話が、その晩はきっと、ぼかされた絵のようになって夢に現われるんですもの……夢を見ることもまた大きな楽しみの一つでございます。
それから、
こうして、毎日、どこにいるか知れない弁信さんに、届くはずのない手紙ばかり書いて、自分ひとりを慰めているうちに、不思議なことには、毎日毎日、なんだか、弁信さんが、こちらへ向いて少しずつ近づいて来るのじゃないかと思われて――
ほんとうに弁信さん――
あなたのような勘のいい方は、わたしがここに、こんなに考えていることを気づいて、こちらへ向けて出かけておいでになるのかも知れません。近いうちに、弁信さんがここへ来るような気がしてなりませんもの――
それは全く空想に違いありません。いくらなんだって、この交通の杜絶《とぜつ》している白骨の奥へ、土地の案内者か、冒険者なら格別、弁信さんみたような、きゃしゃな人が、来られようとは思いませんが、日々日々《にちにちにちにち》に、そんな心持がして、これを書いている一行毎に、弁信さんの姿が、わたしに近づいて来る心持を、どうすることもできません。
事実としては、そんなことはあろうはずはありませんけれど、もし、万に一つ、そんなことがあり得るとしたら、弁信さん、あなた一人だけでなく、茂ちゃんも連れて来て下さい。
それは来るなといっても、あの子は弁信さんについて来るにきまっているでしょうが、忘れないで下さい――
茂ちゃんも、弁信さんの傍へ置かないとあぶなくてなりません――」
[#ここで字下げ終わり]
四十六
お雪が、ひとりこうして月夜の大観に酔うている時、宿の軒下から、一つの提灯《ちょうちん》が、さまよい出したのを見て、ぞっとしました。
時は、この通りの月夜ですから、ちょっと、そこらへ出るには明りはいりません。ところはこの場合ですから、遠方より行きつ戻りつすべき場合でもありません。
これが闇の夜ならばとにかく、皎々《こうこう》たる満眼の月夜であるだけに、お雪は物凄いと思いました。
誰だろう、今時分、何しに……と疑いながら幻想をくずし、眼をみはって、その人を見たしかめようとしたが、三階の高さから朦朧《もうろう》としてわからず、かえって、人が無くして提灯のみが浮き出して歩き出したようです。人魂《ひとだま》かなんぞのように、ふらふらと宙に迷って、提灯だけが月夜に浮き出したもののようです。
それで、お雪ちゃんは、ほとんど身の毛をよだてた[#「よだてた」に傍点]ものです。
一旦、軒下から、ふらふらとさまよい出した提灯は、軒をめぐって消えてしまいましたけれど、しばらくして、また現われ、小径《こみち》をたどって、あちらに、ついどおし道の方へとさまよい行くもののようです。
幻想を恐怖に破られながらお雪は、その提灯から眼をはなすわけにはゆきません。
その時、不意に後ろから音もなく、自分の肩の上に落ちて来たものがあります。
「あっ!」
と振返れば、和《やわ》らかに自分の肩の上に置かれた人の手。
「まあ、先生」
お雪の肩に後ろから手を置いたのは、机竜之助でありました。
肩に手を置かれるまで、どうして、どちらから歩み寄って来られたか、それがわかりません。ただ、不意に襲うて来た手の主が、さる人であったから、ようやく落着きました。そうでなければ、いつぞや、仏頂寺のために、目かくしをされた時よりも、もっと怖れたかも知れません。
それでも、息がハズんで、
「ちっとも存じませんでした」
返事をせずに竜之助の、お雪の肩に置いた手はようやく深くなって胸のあたりに襲うて来ると共に、その胸が自分の背を圧迫して来るのを感じます。
お雪は、いったん、落ちついたが、それからまた胸の轟《とどろ》くのをとどめることができません。
それは、どうもなんとなくこの人の挙動に、圧迫を感じるのと、ちょっと振返って見た途端に、右の手を自分の肩にかけ、左の手には刀を提げていたからです。
それは、ちょっと合点《がてん》のゆかない呼吸でありました。
それでも、圧迫をのがれようという気にもなりません。
「なんて、いい月夜なんでしょう」
と言いました。
「寒いことはない?」
と、深く胸に腕をおろしながら、竜之助が言いました。
「あんまり、いい景色だものですから、寒いことも忘れてしまいました」
「そうかなあ、そんなによい景色ですか」
「ええ、それはそれは」
「景色はいいが、今晩はなんだか宿が物さわがしいではないか」
「いいえ……」
お雪が解《げ》せないと思いました。事実、今晩の宿といって特にさわがしいことはありはしない。自分の気のついている限りでは、いつもの通りの冬籠《ふゆごも》りの宿に何の出入りもない、空気の動揺もない、と信じていましたのに、この人はこんなことを言う。そこで、
「いいえ、騒がしいことは少しもございません、いつもの通り、ほんとに静かな山間《やまあい》でございます、静かになればなるほど、夜の景色が何とも言われません」
「でも、なんとなく物騒がしい晩だ」
「いいえ、やっぱり静かな晩でございますわ」
「そうかなあ」
その時、竜之助の深くさし込んだ左の腕が、お雪の乳房の首まで届きました。お雪でなければ、まあ、くすぐったいと、はしゃいで振りもぎるところでしょう。お雪は、最初から圧迫的な空気を、如何《いかん》ともすることができないで、ほとんど、二人が重なり合って立ちながら、夜の景色に見とれているような形です。亜字の欄《てすり》に立ちながら二人は、じっと身動きもしないでいたが、お雪の動悸が、高ぶってゆくことは眼に見えるようです。それでも逃れようとはもがきません――もう、わかりきっているのでしょう。
「物騒がしい晩だ、今晩ぐらい、物騒がしい晩はない」
と、竜之助の言うことはやはり圧迫的で、且つ独断に偏しています。
「いいえ……ちっとも騒がしいことは」
お雪は、竜之助の独断を打消そうとしたが、自分の胸の騒ぎを打消すことはできないと見えて、言葉半ばで、自分の口の中が乾きました。
「ああ、やっぱり物騒がしい、なんとなく落ちつかぬ空気だ、今晩は誰か、この白骨谷の空気を乱しに来た奴がある……」
「え……」
「誰か、この天地へ、外から入り込んだ奴がある、それが、この白骨谷の空気をかき廻して、それでこんなに騒がしい」
と竜之助が言いました。お雪は、身体《からだ》と乳房の堪え難い圧迫を覚えてきました。
「いいえ、そんなことは、この静かな晩に……」
途切れ途切れに言う、お雪の口がかわいてゆくのを、やはり、どうすることもできないらしい。
「静かな晩でございますが、ね
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