というものを、両様に感じないわけにはゆきません。
御当人はああして哀号することによって、気分が改悔の誠意を見せているつもりか知らん、同時に同情の念を呼び起そうとつとめているのか知らん、見ている周囲にとっては、いよいよ滑稽と、侮蔑とがあるのみだ。
それにつけても、一人というものの存在が、存在その時には意識に上らなかったほどの影が、立退いてみると、無用の用の大きさの予想外なのに驚かされることがある。
田山白雲がおりさえすれば、ただ存在するその事だけで、これら一切の、悲喜劇は起らなかったのだ。田山が存在することによって、マドロスの放縦が芽を出すことができない。よし芽が出ても、伸びることができないのだ。人間には、ただ人間としての力の存在のほかに、その雰囲気の力がある――というようなことを、駒井が痛感せずにはおられないのです。
のみならず、白雲が存在することによって、マドロスの不検束に強圧が加わり、その放縦の芽が伸びる力を失うのみならず、このふしだらの天才の有する、よい方の能力をも充分と使用することができるのだ。
これが今は二つながら駄目だ――せっかく、企てた炭坑の探検も、これによって重大な支障となる。なおまた、このマドロスの処罰と、改造とのために、あたら時間と、脳力とを費さずばなるまい――二重三重の物心内外の不経済。
主として、駒井はそれを今、人物経済上の利害から考えてみて、将来、自分が船によって一自由国に向う門出の重要なる参考でなければならないと考えました。
四十二
鹿島洋《かしまなだ》の波をうつさんとして、そこに踏み止まった田山白雲は、波濤洶涌《はとうきょうよう》の間に、半神半武の古英雄を想うて、帰ることを忘れました。
今日しも、朝まだきより、この海岸を東へ向って、行けども行けども、人煙を絶するのところに、境涯を忘れ、やがて、松林――古《いにし》えは夥《おびただ》しく鹿を棲《す》まわせて、奈良の春日の神鹿の祖はここから出でたという――その松林の間に打入って、放神悠々、写生の筆をとっていました。
やがて写生の筆を休めて、また海に向って歩み、ふと、はまなすの生い茂る、一団の砂丘、その上にのぼって、海に向って一心に弓なりの浜を見ていると、ほとんど、視野の半ばのところに、今日は珍しくも動いているものを認めました。動いているものは、海の波と、空を行く雲と、梢に通う風の音ばかりと心得ているところに、海岸の砂浜に、ほとんど豆の動くが如き黒一点を認めて、白雲は直ちに、
「人だな……人間に紛れもない」
と、かえって人間の存在することに、驚異の眼をみはりました。
暫くは静止して、その黒点を注視していましたが、その動いている黒点が、離れたり附いたりするうちに、たしかに二箇は存在することを確認しました。
なお見ているうちに、極めて少しずつではあるが、右の二つの黒点が、こちらに向って近づいて来るのだということを、見損ずるわけにはゆきません。
「はて、漁師かな」
漁師にしては舟が無い、と見ているうちに、その二つの影がようやく、はっきりする。二つの人影が、棒を以て渡り合っている――と白雲はそう思いました。多分、棒だろうと思われる、そうでなければ然《しか》るべき得物《えもの》――武器でなければなるまい。それを持った二人が、附いたり離れたり、ある時は飛び違ったり、走《は》せ出したり、また飛び戻ったりする。なお注視するところによれば、その二人は、いずれも武装している、武装でなければ旅装である。足は相当にかためられていることは争われない。
かりにこの辺に、数戸の漁師があって、それが朝がかりの仕事としては、念の入った身がまえである。
田山白雲は、海に酔うた眼を以て、暫くその二つの人影に、注意を払わずにはおられなくなりました。
やや暫く注視を怠らないでいるうちに、附いては離れ、或いは飛び違い、走せ戻り、時とすると、一町二町を一人が走り移って、また走り戻ることもある。そうして、両の手には、しかるべき得物を離すことをしない。
その体《てい》を見て白雲の興味が、いよいよ異常を加えるようになりました。
決闘だ――たしかに、そう断定を下すより持って行き場がない。
そうだ、あの二つの人影の間に、何か意趣を含むところのものがあって、相しめし合わせて、全く人目を避けたこの海岸に来て、生命を端的の輸贏《ゆえい》にかけて、恩怨を決死の格闘に置くの約束が果されようとしているのだ。
それも、普通の田夫漁人の、なぐり合いではなく、相当の心得ある士分のやり口だと直覚しないわけにはゆきません。香取鹿島は名にし負う、武神の地――特にこの海岸を選んで、隔意なしの武道の角技――そうして、生も死も、芸術の上にかけて、残るところの恨みをとどめざる契約。必ずや二人ともに、腕に覚えあり余るつわもの[#「つわもの」に傍点]には相違あるまい――そうだとすれば、時にとってのよい見物《みもの》、場合によっては、仲裁の役に廻り、あたら両虎を傷つけないようの老婆心もあってよかろう――ともかく、行って見よう。しかし距離が――あれだけの距離、目分量で、十町余りはたしかである。
これから、息をも切らさずに飛んで行っても、走《は》せつけた時分には、もう両虎ともに傷ついて起つ能《あた》わざることになっているか、一方が一方を処分し終った時になっている――そこで、あえて急ぐ必要はあるとしても、急いだ効果はないものとして、件《くだん》の小丘を、おもむろに下ろうとしていて、ふと首をめぐらした時、計らずも今度は、海上に於て異様なる黒一点を認めました。
それは、海岸の陸に於て、目下見つつあった二つの黒影とは、比較を絶するほどに大きな黒影が、波を切って南に向って行くのであります。
「黒船だ!」
白雲が眦《まなじり》を決してその黒船を睨《にら》んだ瞬間、ただいま決闘――と認定せる二つの人影のことは全く忘れ去りました。
「うむ、黒船だ」
こんな大きな海上を走る存在物を、多分、白雲は今までに見なかったであろう。檣《マスト》を立て、煙を吐いて行く黒船の雄姿は、田山の眼と、心とを、両個《ふたつ》の人影から奪うに充分でありました。
黒船――その名が暗示するところは、日本のものではない、日本には海上を走るもので、これだけの存在物は目下あり得ない、と白雲の頭はなんとなく激昂する。
鹿島洋を横断する不敵な怪物!
荒海を征服してわがもの顔に行く、その雄姿を、この大洋の上に見せられると、白雲も、外夷を軽蔑する頭を以て、充分の敵愾心《てきがいしん》を呼び起されつつも、なおその姿の懸絶に動かされないわけにはゆかない。どう贔屓目《ひいきめ》に見ようとしても、黒船の雄姿に比ぶる和船は、巨人と侏儒《こびと》との相違である。いかに軽蔑しようとしても、眼前を圧する輪郭は争われない。
田山白雲は、一種の感激と、いらだたしさを感じて、黒船の姿に見とれ、決闘の場に赴くべく、丘を下らんとした砂丘を下らずして、しばらく立ち尽すのやむを得ざるに至りました。
駒井甚三郎ならば、この徒《いたず》らな感激と、敵愾と、いらだたしさから超越して、まずこの黒船の型が近代の何式によるかを観察し、次に、その噸数《トンすう》を計量し、次に乗組の人員、その国籍、機関の種類、出立点、行先、速力等を計算推量して、ついにほぼあやまりなく一つの結論に到達するに相達ない。
白雲では、そういう数字と、計算には頭が働き得られない。その直覚と、感激から来るところの結論は到底――
[#ここから2字下げ]
この船のよるてふことを束《つか》の間《ま》も
忘れぬは世の宝なりけり
[#ここで字下げ終わり]
というものに似た迄に帰着する。なあに、毛唐め! なる程機械力の優秀に於ては一歩を譲るかも知れないが、いよいよの時は「わが檣柱を倒して虜船に上る」までの事だ!
こうして、黒船を見送っているうちに、黒船の大きさも豆のようになる。やがて、波間に消えてしまう、そうすると海の波の大きさが浮き上って来る。見るべき焦点を失った時に、茫洋たる瞳がよみがえる――
あ、そうだ、黒船も黒船だが、さいぜんのあの人影は、あの決闘は、あの果し合いは――その結末はどうなったのだ。黒船であろうとも、白船であろうとも、船が海を往くことは尋常中の尋常である。それを、うっかりと見とれていたこっちが田舎者《いなかもの》! それよりも、たとえ豆のような人影にしろ、人命二つの浮き沈みの方が遥かに大事であった。
さあ、両個の運命は、どうなった。
白雲は、いそがわしく、眼を転じたが、幸か不幸か、さいぜんまで見えた両個の人影の二つとも見えない。渺茫《びょうぼう》として人煙を絶することは陸も海も同じようなる鹿島洋《かしまなだ》。
もしや、両虎共に傷ついて、砂に倒れて万事|了《おわ》ったかと地を低くながめやったが、その屍体らしい物は見当らない。
では、黒船に見とれている間に、案の如く、両虎は共に傷ついて砂浜に倒れたところを、無雑作に波が来て、さらって行ってしまったのだろう――あとかたもない。
田山白雲は手の中の珠でも取られたように、なんとなく心に一味の哀愁を覚えつつ、さて、今は全く、ながめやるべき焦点を失い、最初の茫洋たる豪興を回復するまでの間、無意識に砂浜を歩み――足は本能的に南の方、黒船の走って行った方向、決闘の行われていたと同方向に向って、そぞろ歩きの体《てい》でありましたが、やがて砂浜を右にさまようて、またも松原続きの中に入りました。
海を避けて林に入ったのではなく、この林を抜けて、また彼方に渺茫たる海を見ようとして進み入ったものであります。
ところが、この松林が意外に深く、これに入った白雲の足どりが、存外要領を得ていなかったものだから、松林を行きつ戻りつ、嘯《うそぶ》く人のように見えました。
四十三
海を見て杜《もり》へ入ると、気分が全く転換する。
雑林地帯と違って、下萌えのない芝原に、スクスクと生い立った松の大幹の梢が、豪宕《ごうとう》な海風と相接する音を聞くと、言わん方なき爽快と、閑雅にひたされる。海は豪宕のうちに無限というものの哀愁を教える。山林は身神を放遊して、人に閑雅を与える。
太古、この松林には夥《おびただ》しい鹿が、野生群遊していたという。
大和の奈良の春日山の神鹿の祖、ここに数千の野生の、しかも柔順な、その頭には雄健なる角をいただいて、その衣裳にはなだらかな模様を有し、その眼には豊富なるうるみを持った神苑動物の野生的群遊を、その豪宕な海と、閑雅なる松林の間に想像してみると、これも、すばらしい画題だ! その群鹿の中に取囲まれて、人と獣とが全く友となって一味になって、悠遊寛歩する前代人の快感を想像する。
そうだ、「春日以前の神鹿」といったような画題で、また一つ、この群生動物を中心に一大画幅をつくってみようとの、画興が油然《ゆうぜん》として起るのを禁ずることができない。
画題は有り余る! 彼はかく感ずる瞬間の自分というものを、限りなく果報に感じ出してきた。おれも貧乏に於てはかなり人後に落ちないが、斯様《かよう》な富の豊富無尽蔵を感じ得る頭脳だけは、無類の幸福者といわずばなるまい。
人は技の拙なるに患《わずら》いする、材の取り難きに苦心する、もしそれ画題の陳腐を厭《いと》うての筆端の新鮮なるを希《ねが》うに至っては、万人の画家が、ひとしく欲しながら、ついに粉本《ふんぽん》を出でることができず、前人の足跡より脱することができないのに、こうして、足一歩――ではないが、十里百里と興に馴れて自然そのものに直接に没入して行きさえすれば、自然は惜気もなく、その無尽蔵を開いて、永遠の画題を我等に与うるのだ。
「おれは仕合せ者だ!」
白雲は、こういう瞬間には、かく自分の身の恵まれたることの讃歌を、誰はばからず絶叫するの稚気を有している。
この稚気が存する間、妻は病床に臥すとも、子は飢えに泣くとも、存外、のんき千万で生きて行かれる!
「あ
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