は悪いのか知ら」というようなことを口走って、駒井を悩ませた、あの病気であった当時のこと。
 今となってもなお、自己の貞操に加えられた極度の侮辱乱暴を、無条件に許してしまいたい心持が残っているとは浅ましい! 歯痒《はがゆ》い!
 酒に狂暴性を煽られた人間の野獣性と、それに憎悪と、制裁を感じ得ない、麻痺した貞操心! 忌《いま》わしいものの極みだ。
 外国人を、毛唐といって、人間以下、獣類同格に置くのは、時勢に盲目な尊王攘夷連だけではないが、おそらくそれが事実か。人間よりは獣類に近い毛唐め!
 駒井としては、珍しくもこの時に、極端な憎悪と、昂奮とを感ぜずにはおられなくなりました。
 その憎悪と、昂奮とを強《し》いて冷静にして、雨の半日をともかくも研究に没頭し、正午の合図があった時に食堂へ出て見ると、金椎、茂太郎はお行儀よく待っていたが、もゆる子の姿の見えないことは、朝と同じです。
「お嬢さんは、まだよくなりません、熱が出ましたから、もう少し休ませていただきたいと言っていました」
 茂太郎が代って申しわけをする。
「熱が出たか」
「でも元気で、時々歌をうたったりなんかしています」
「そうか」
といって、駒井は二人の給仕を受けて、御飯を済ますと、その足で、再び、もゆる子の室を見舞ってみました。
「ねえ、殿様、マトロスさんの行方《ゆくえ》はまだわかりませんか」
「わからない」
「許して上げてください、わたしは、なお繰返して考えてみましたが、いよいよあの人が憎くなくなりました」
「ふーむ」
「殿様、あなたは、まだお気が解けないようでございますが、御無理もございませんけれど、ねえ、どうかマドロスさんを許して上げてください」
「許すも許さないもない」
「お叱りにならないように。もし、行きところがなくなると、あの人は、わたしたちよりも一層哀れですからね」
「自分の犯せる罪の、当然の報いだろう」
「ほんの一時の出来心でございますよ」
「出来心! この上もなく危険性を含んだ出来心……それがたびたび繰返されてはたまるまい」
 駒井が苦々しく言いきると、
「危険性とおっしゃいますけれども、すべての男の方はみんな、どなたも、あの危険性を持っておいでなのじゃありますまいか。わたしは、マドロスさんに限ったことはない、男という男の方は、隙があれば女を犯そうとしているもの、それが少しも危険なことじゃなく、あたりまえの人間の本性なのじゃないか知らと思っておりますのよ。だから、マドロスさんだけを危険がったり、憎がったりするのは不公平だと、わたしは考えました」
「そうすると、男という男は、みんな野獣のようなものか」
「いいえ、そうじゃありません、女が誘いをかけるように出来ているから、そうなるのですね。罪といえば、罪のもとはかえって女にあるかも知れません、女に誘惑の力が無ければ、男が危険をおかしてまで寄って来るはずがございませんもの」
「それじゃお前は、男の暴力を是認しているのだね、暴力の前に、女というものの貞操は食い物にされるということを、あたりまえと許している」
「貞操なんていうものは……わたしは頭が悪いからよくわかりませんが、ずいぶん手前勝手なものじゃありません?」
「貞操というものが、手前勝手のものだって……」
「ええ」
「少し頭を静かにした方がいい」
「いいえ、静かになっておりますのよ、わたしの方が、今日は殿様より静かになっているかも知れません。わたしは、男にしても、女にしても、貞操というものはずいぶん手前勝手なものじゃないか知らと、このごろ中、考えさせられていました」
「…………」
「マドロスさんは乱暴には相違ないが、それを憎むわたしたちが男だとしまして、そうして、マドロスさんがしたような事を、決してしないと言いきることができましょうか」
「男性のした最も下劣にして、不謹慎な仕事が憎めない?」
「いいえ、すべての男子の方が、女を弄《もてあそ》ぼうとなさる時分に、その受入れ方に違いがあるばかりです、これがもしかりに、お大尽や高い身分のお方でしたら、その身分が表面を綺麗《きれい》にし、マドロスさんのような場合には、現われ方が乱暴になるばかりです、どちらにしても、男の方が女を弄ぼうとなさる心持は、同じ事じゃありませんか」
「…………」
「何不自由のない人が、力ずくや、金の力で、幾人の女を弄んでいる世の中に、情に飢《かつ》えた外国生れのマドロスさんが、これを欲しがったって、それほどに悪い事でありますか知ら、どちらかといえば、かわいそうなものと言ってもいいのじゃないでしょうか」
 兵部の娘は平気で、こんな事を言い出しました。こんな論法をがんりき[#「がんりき」に傍点]の百にでも向けようものならば、「それほどかわいそうなら、いくらでも振舞ってやんねえ」と、極めて露骨なる揶揄《やゆ》を試むるところであろうけれど、駒井は、それをもてあまして、ああ、昨夜の出来事から、ぶり返した、せっかく、常識にかえりかけた女の調子を狂わせてしまった……不快に堪えない心が募ってきたと見え、
「お前の考えは無茶だ、まあ、深く考えないで、静かにしていたまえ」
 こう言って、自分の座敷へ帰って来ました。
 午後になって、雨がはれたものだから、駒井は、造船所の方へ見廻ってみると、みな、威勢よく働いて、仕事はめざましいばかり進んでいる。
 小休みの時に、駒井の周囲《まわり》によって、皆の話題は、出奔のマドロスと、その悪口とに集中する。
 ここの連中も、惣出で手分けをしてマドロスの行方を探してみたのだが、無効に終ったのだ。
 あの毛唐《けとう》め、存外、兇暴性と、泥棒根性とを持っていることをみんなが言う。あんなのは結局度し難い奴で、最後には大迷惑を与える奴に相違ない。海へ抛《ほう》り込むわけにもゆくまいから、所払いを食わしてしまうに限ると主張する者も出て来る。
 そうして、駒井は夕方陣屋へ帰って来て見ると、庭を透《とお》して、兵部の娘の室では、娘と茂太郎とが何をか合唱しているらしい。嬉々とした声音が洩るるので、ああ、観念というものの鈍い彼等、やはり浅ましくも憐れなものだ、という感情に打たれつつ、自分の室へ足を入れました。

         四十一

 その翌朝、枕を上げて聞くと、もゆる子と茂太郎との嬉々とした話し声が、あの室から洩れて来て、やがて二人が合唱となって歌い出したのを聞く。
 駒井は、つくづく、張合抜けのするほどに、たよりなさを感ずると共に、無恥と、無智との観念の区別がわからないものかと歎息しました。
 やがて、今朝はすべてが無事に食卓を囲むことになる――すべてといううちに、田山白雲と、マドロスとは除いて、つまり昨日の食卓に、一人の兵部の娘を加えただけで食卓を囲みました。
 駒井の頭脳《あたま》のうちには、いろいろの複雑な感情が往来しているのに、もゆる子と茂太郎との、わだかまりのないこと。
「殿様、キュラソーを召上りますか」
「いりません」
「今朝のかぼちゃは、たいそうおいしうございます」
「茂ちゃん、このお魚を食べてごらん、骨の無いところを」
「お嬢さん、お前、怪我をしてますね」
「ええ、少しばかり」
「どうして、怪我をしたのさ」
 茂太郎は、もゆる子の手の甲に、膏薬《こうやく》のはってあったのを、お肴《さかな》を取ってくれる時に認めたものらしい。
「どうしてでもないのよ、いいからおあがりなさい」
「でも、お嬢さんの蒲団の上にも、血のついているのを、さっき、わたしは見ちまったから、変だと思ったのよ」
「御飯をいただく時に、そんなことを言うものじゃありません……」
 その時、窓の外が急に、ざわめき出したのを、見やると、一群の人数が罵《ののし》りながら、何者かを擁《よう》してこのところへ入って来るのを認める。
「あれ、マドロスさんが……」
 なるほど、多数の中に揉《も》まれ揉まれて来るマドロスの姿は、誰が見てもそれに相違ないが、その取扱いっぷりの荒っぽいこと。
 マドロスは、高手小手にひっくくられている。それを、袋叩きにぴしぴしとひっぱたきながら、多勢で引摺って来る。
 この毛唐め、図々しい毛唐、泥棒根性の毛唐、こんな奴は痛しめろ! というような声で、引摺りながら、いい気になって、ぴしぴしとひっぱたいている。
 ぴしぴしとひっぱたかれる度毎に、
「御免下さい、ゴメン、ゴメン」
といって、泣き叫ぶマドロスの声を聞く。
 食卓の一同は、言い合わせたように箸を置き、フォークを捨てて立ち上りました。
 こうして、村人や造船所の連中に、ひっぱられて来たマドロスが、庭に引据えられて、駒井の訊問を受くるの段取りとなったのは間もないことであります。
 庭に引据えられたマドロスは、なお盛んに泣いている、大声をあげて泣いている、本当の手ばなしで泣いていて手がつけられない。さすがの駒井もその醜態を見て、空しく失笑するのみでした。
 駒井は、許すべしとも、許すべからずとも言わず、造船所連は一応マドロスを殿様の面前に引据えてから、窮命の意味か、禁獄のつもりか知らないけれど、そのまま、物置の中へ抛《ほう》り込んで置いて、一同は引上げてしまいました。
 縛られたまま、物置の隅に投げ込まれたマドロスは、そこで、相変らず大きな声をあげて泣き叫んで、ゆるしを乞うている。ずう[#「ずう」に傍点]体に似合わない泣き虫。
 引捉えて来た造船所連の告げるところによると、この泣き虫は今早朝、ある漁師の家の附近にうろついているところを、大勢してとっつかまえて、必死に抵抗するのを、ようやくのことで縄にかけて来たのだとのこと。
 けだし、しかるべき山中の洞穴かなにかに、身をひそめていたやつが、空腹に堪え兼ねて、人里へうろつき出したところを、引捉えられてこの運命ということらしい。
 物置へ抛り込まれてなお、マドロスが盛んに泣き叫んでいるのを、こちらの室では、もゆる子と茂太郎とが聞きながら、痛いような、くすぐったいような、バチだから仕方がないというような、でもかわいそうねというような、殿様に頼んで縄を解いて上げましょうかというような、いいえ、それにしてもまだ早いわ、もう少し泣かしておきましょうよというような表情で、面《かお》を見合わせて語り合っている。
 ところがまもなく、米飯と、野菜と、魚肉とを、一つの皿に盛り上げたのを持って、物置へ入って行く金椎《キンツイ》を見る。
 そうして、両手を縛られて、絶泣しているマドロスの面前へそれを持って行って、箸でいちいちハサんで、マドロスの口へあてがっているところの金椎を見る。
 親鳥から餌を与えられるようにして、金椎から箸で突き出される食物を、雛が食べさせてもらうように、パクついているマドロスを見る。
 その食物をパクつく間のマドロスは号泣していないのを見る。食物をパクつく間にしゃくり上げるマドロスを見る。その瞬間に、眼からポロポロと落ちる水滴は、その以後と区別した嬉し涙というものの一滴だろうとは受取れる。
 こうして見ると、泣くことは泣くが、食うことも食う。見るまに大きな一皿を平げて、なお物欲しそうな色が残る。泣くことと、食うことは別なのであるように見える。泣くべき時には、泣けるだけを泣き、食うべき時には、食うだけを食うという分業組織が、この男にはかなり規律正しく使い分けられているように見える。
 日本人の普通に見るように、泣くべきほどの事があるから食事も進まないの、胸が塞がって飲むものも飲まれないのというような、物と心との混線作用はないらしい。
 だが、この際は、金椎も食うだけ食わせることをしないのが、かえって合理的だと思ったのでしょう。右の一皿だけを提供し終ると、あとは節制を与えて物質の補充を追加しないのが、この際相当の処置と思ったのでしょう。
 そこで、食うことがこれ以上許されないとすれば、これからまた号泣の中断を続けるの段取りとならなければならぬ。
 果して、金椎が立去ったあとで、哀号の声がしきりに起りました。
 その哀号を遠音に聞きながら、駒井甚三郎は人間の本能性の底の知れない不検束
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