べき一品の証拠でも出て来たのなら、まだあきらめもあるが、それすら全く無い。今以て、寝ざめの悪いことである。万々一、マドロスが、あの轍《てつ》を踏んで、あの時とは場合も違うし、清吉と、マドロスとは、性格に於ても比較にならないが、それでも、万々一……清吉のことを考え出してみると、駒井も、マドロスのために不安がこみ上げて来ました。マドロスそのものを、ああして不親切にしておくことは、清吉のために済まないような気もする。
 今となっても一向、マドロスの帰って来た模様はない。まだあのままで酔倒の夢がさめないのだろう。そこで駒井は、狼に食われはしないかと言った茂公の言葉までが気にならないではない。
「よし、それでは、もう一度見届けて来てやろう」
 多少の責任感のようなものに迫られて、駒井は寝室に入ってねまきを着ることの代りに、刀架に置いた刀をとって差し、陣笠をかぶり、鞭をとって、音のしないように、この家の外の闇に出てしまいました。
 たった一人で、提灯《ちょうちん》もつけずに、この闇の中を駒井は、静かに先刻のマドロスの酔倒していた路傍のあたりまで進んで行って見ました。

         三十九

 駒井甚三郎は、マドロスが酔倒していた現場まで来て見たけれども、もはや、そのところにマドロスの形がありません。
 そのあたりを、暗い中で、相当にあたりをつけて見たけれど、単にいたところの人が見えなくなったというだけで、そのほかにはなんら異常の気配は見えないようです。
 つまり行違いになったのだ、先生、ようやく目がさめて、あわてふためいて立戻り、いまごろは、寝床へもぐり込んで、前後不覚の夢を繰り返しているのだろうと、駒井はタカをくくって、そうして、それから海岸の方へと歩みを進めました。
 その時も、天文の興味が頭を去らないものですから、思わず頭を天空にもたげて、そうしてさいぜん観察した星の進行を注意しつつ海岸を歩いて、家路の方へ静かに踵《きびす》をめぐらした時です。
 急にあわただしい空気があって、バタバタと人の足音があって、やがて夜目にもしるき着物の色がこちらへ向って見えて来ましたから、駒井が驚いて足をとどめていると、まもなくせいせいと息をきる音。それらの雰囲気で、よくわかっている、これは珍しくもない兵部の娘、もゆる子であるということを、駒井が直ちに感づきました。
 そこで、またはじまったな、困ったものだな、せっかく、鎮静しかけた病気が、またきざし出して、時と所とを嫌わず飛び出すあの娘の病気、今夜という今夜、またきざしたのだ。しかし、自分がここにめぐり合わせたのは勿怪《もっけ》の幸い。
 それとじゅうぶん合点《がてん》が行ったから、駒井甚三郎は、むしろ網を張るような心持で、両手をひろげて待っていると果して、たあいもなくその網にひっかかってしまいました。
「まあ、殿様!」
 もゆる子は、駒井の面《かお》にすがりつくように立ちどまって、
「こんなに、おそく、こんなところにおいでになろうとは存じませんでした」
「お前こそ」
「いいえ、わたしのは、こうして逃げ出して来るわけがあるから、逃げ出したのでございます」
「どうして?」
「逃げなければならないから、逃げ出して、殿様のお部屋へ逃げ込みましたけれど、どうしたものか、殿様がいらっしゃらないものですから、たまらなくなって、窓から飛び出して逃げて来ました」
 こう言って、女は嵐のように息をきる。しかし、これも、深くは駒井を驚かすことはありません。やはり例によっての病気のきざしのさせる業《わざ》だと思いましたから、それをなだめるような気持で、
「何か怖い夢でも見たのかね」
「いいえ、夢ではありません、わたしは、今夜という今夜こそ、あのマドロスさんに、ひどい目に遭《あ》わされました」
「え!」
 この時、なぜか駒井がギョッとして胸が騒ぎました。女は息をはずませながら、
「ちょっと先、戸があくような音がしましたので、ふと、眼をさまして見ますと、誰か、わたしの傍へ来ておりました」
「うむ」
「茂ちゃんならば、入りさえすれば、言葉をかけるのに、あんまり静かに入って来たものですから、わたしは、もしや……と思って」
「うむ」
「ところが、どうでしょう、今まで静かであったその人が、急に獣《けだもの》のように荒《あば》れ出して、わたしの体をおっかぶせてしまいましたから、わたしは声を立てることも、息をすることもできません、けれども、この悪い獣のような奴が誰だかということは、直ぐにわかりました、ほんとに獣です、人間じゃありません、あのマドロスの畜生です、あれのために、わたしは全く身動きも、息をすることもできなくなったから、助けて下さいと救いを叫ぶこともできやしません」
「うむ」
 駒井は、うめくように答えます。
「ホントに口惜《くや》しい!」
 もゆる子は歯噛みをして、息をはずませている。駒井は憤然として拳を握りしめました。
「ああ、油断の罪だ、ちょっとの注意の怠りが、そうさせたのだ」
「ホントに憎らしい奴です、いつ、隙《すき》をねらって来たんでしょう、ふだんならば、そのくらいの物音でも、わたしが声を立てなくても、金椎《キンツイ》さんはいけないとしても、茂ちゃんは直ぐに眼をさましてくれるし、声を立てれば、殿様のお寝間までも聞えるんだから、それにあのマドロスの奴も、このごろは、皆さんのおかげで全く改心したものと安心していたのが、こっちの抜かりでございました、今夜という今夜は、もう充分に隙をねらっていたのですね、茂ちゃんを驚かす物音もさせず、わたしに人を呼ぶ隙も与えずに、どうすることもできないようにしてしまったのです、ああ、口惜《くや》しい」
「うむ、油断だ、全く、こっちの油断の責めというよりほかはない、む、む」
「ですけれども、女だって、一生懸命というものはばかになりません、それほどにされた、あの大きな奴を突き飛ばして、はね起きて、わたしは、殿様のお居間までかけつけたのは、自分ながら夢中でございました。ところが、殿様のお居間の戸をあけますと、今夜は容易《たやす》くあきましたが、殿様がその中にいらっしゃいません、そのうちに、恐ろしい足音でマドロスが追いかけて来るものですから、わたくしは、たまらなくなって、あの窓から飛び出して、こっちへ逃げて参りました」
「ああ、そうか……」
 駒井が、こうも抑えきれない無念の色を現わすことは、今までにあまり例のないことでありました。
「もう、安心なさい、マドロスの奴、酒の上とは言いながら、許し難き奴」
 駒井は、やはり抑え難い怒気を含んで、そうしてその手はぐんぐんと、もゆる子を引き立てて、そうして陣屋の方へ急ぎました。
 帰って駒井は、手早くキャンドルをともして見ると、狼藉《ろうぜき》のあとは、女の言うことを如実に証明しているが、当の暴行者の姿は見えない――ただ、茂太郎の声としてしきりに泣き叫ぶのが聞える。
 駒井と兵部の娘とは、その声を聞きつけて飛んで行って見ると、茂太郎は蒲団《ふとん》の上に仰向けに抑え込まれている。茂太郎を抑え込んでいるのは人間の力ではなく、漁に使用する網を上から押しかぶせて蒲団もろともにグルグル巻きにしてあるのでありました。
 そして、手も足も出ない茂太郎は、声だけを上げて叫んでいる。
 その網を取払って、そうして、茂太郎の口から聞くところによれば、熟睡中に不意に襲いかかって、自分の口をおさえ、その上をこの通り十重二十重《とえはたえ》に包んでしまった者がある。しばらくもがいた後に、ようやく咽喉《のど》の自由だけが出来たから、さいぜんから叫びつづけているが、身の自由は利《き》かない。叫んでも、今まで誰も来てくれない!
 それを聞いてみると、酔いどれとは言いながら、たしかに、計画的にやった犯行だというよりほかはない。茂太郎を抑え込む以前には、多分主人公駒井の室の動静をもうかがっての上だろう。たしかに主人公がいないと見極めて、急に悪性《あくしょう》がこみ上げて来て、この蛮行に出でたものかも知れない――この雑然、噪然《そうぜん》、困惑の中に、金椎のみは別世界にいるように、いっかな夢を破られてはいないことがかえって不憫《ふびん》でもある。
 すべてを、もとのようにあらしめ、もゆる子と、茂太郎とは自分の次の一室において、駒井自身も寝についたが、その夜は、ほとんど眠られませんでした。
 翌日、人を集めて、旨を含めて、マドロスの行方《ゆくえ》をさがさせたけれども、それは容易にわかりません。悔恨に責められて、ドコぞの木の枝にブラ下がっているという報告も聞かないが、生きている以上は、遠くは逃げられないことになっている。よし遠く逃げたところで、眼の色と髪の毛とが、身を置くところ無からしめるにきまっている。
 その日、一日さがさせただけで、マドロスの行方捜索は打切り……駒井の頭は、この浮浪人の行方よりも、そやつの働いた不徳の行為よりも、自分が監視のぬかりを悔ゆるよりも、それと関聯して、それとは別に、一つの軽からぬ悩みに捉われてしまいました。
 その翌日は雨だものでしたから、駒井は、造船の方へ行かずして、一室に閉じ籠《こも》ってしまいました。

         四十

 駒井甚三郎はその翌朝、兵部の娘の寝室まで来て、
「どうです、加減が悪いということだが」
「はい、御免下さいまし」
 寝台の上に寝ていた兵部の娘は、駒井の来訪に恥かしがって、起き直ろうとするのを、
「そうしておいでなさい」
 傍らの椅子に腰を下ろすと、
「なんだか、少し寒気がしてたまらないものですから、あの子にお言伝《ことづて》を頼んで、寝つづけにしております」
「それはいけない、昨夜のことが祟《たた》ったのだ」
と、駒井は慰めるつもりで、そう言ったが、それを言ううちに、一種の不快な気分を如何《いかん》ともすることができません。
「そんなこともありますまいけれど……」
と答えて目をそらした娘の言葉も、冴《さ》えない。
「ゆっくりお寝みなさい、何か薬をさがして上げましょう」
「有難うございます」
 しとやかなお礼の言葉。
 駒井は、この女が、もはや全く平常の心持を取返しているということを、この時も、つくづくと思わされます。
 かつての昔のような狂態は、少しも見ることはできない。しとやかな、恥を知ることの多い処女性の多分を認めるほど、かえって昨夜の変事が無惨《むざん》でたまらない。
 そこで、暫く沈黙の重くるしい空気のうちに、駒井は立ち上り、
「大切にしておいでなさい」
 その立ちかかった時に、もゆる子は、涙ながら向き直って、
「殿様、わたしは、昨晩寝ないで考えさせられてしまいました」
「何を」
「いいえ、いろいろの事について、考えさせられてしまいました、そのうちでも、あのマドロスさんのことねえ」
「うむ」
「ほんとうに憎い奴、ゆるせない人ですけれど、よくよく考えてみると、かわいそうなところもありますから、許して上げていただきたいと、そのことを殿様にお願いに出ようか知らと思っておりました」
「うむ」
「あの時は、わたしも叩き殺してやりたいほどに憎らしいと思いましたけれど、考えてみれば、あれも、あの人の一時の出来心ですから、許してやっていただきとうございます」
「うむ、それは、どうでもお前の気の済むように、わしにはわしの了見がある」
 こう言って、駒井は重い足どりで、この室を出て庭の方から一廻りして、自分の部屋へ戻って来ました。
 あの女が許せ! という意味がよくわからない。
「わたしは、今までに七人の男を知っているのよ、なかにはわたしの好きな人もあったし、わたしをヒドい目に会わせた人もあるけれど……欲しがっているものを、くれてやるのはいい事じゃありませんか、物を施すのがいい事なら……慕いよる男という男に、情けを与えてやることも、悪いという理窟はないんじゃありますまいか。ああ、わたしは七人に限らず、誰にでも、この身体《からだ》をやってしまおうか知ら、お女郎は身体を売ってお金を取りますが、お金を取らないで、人に情けを施すこと
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