もう少しつづきを教えてあげよう」
 茂太郎は、やや倦怠を覚えたらしいが、それでも、いやだとは言わなかった。
「さあ――天の歌のつづき、はじまり」
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(駒)ソコデ海王星
(茂)ソコデ海王星
(駒)一名ヲ「ヴェニニ」ノ遊星トイウ
(茂)一名ヲ「ヴェニニ」ノ遊星トイウ
(駒)ソノ大キサハ
(茂)ソノ大キサハ
(駒)地球ノ百十一倍
(茂)地球ノ百十一倍
(駒)太陽トノ距離ガ十一億里
(茂)太陽トノ距離ガ十一億里
(駒)太陽ノ周囲ヲマワルノニ
(茂)太陽ノ周囲ヲマワルノニ
(駒)百六十四年カカル
(茂)百六十四年カカル
(駒)ソレデ終リ
(茂)ソレデ終リ
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 駒井は、その時、肉眼を望遠鏡から離して、今宵の観察を終るの用意にかかります。解放された茂太郎は、駒井について、この台を下りると、提灯《ちょうちん》に火を入れて先に立ち、やがて大声をあげて、こんな歌をうたいました。
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ありもしない海竜に
お杉のあまっ子おどろいた
マドロスはウスノロ
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 ここで、また科学が、即興と、野調に逆転しようとする。
「茂君、だまって歩きなさい」

         三十八

 提灯《ちょうちん》を持って、先に立った清澄の茂太郎が一丁ほど進んだ時、道のまんなかに大いびきで寝ているものに、ぶっつかって、
「おや」
 提灯をさしつけて見るまでもなく、それはマドロス氏です。
「マドロスさん」
 茂太郎は、道に横たわる人間の塊《かたまり》を小さな手で押してみたけれども、ほとんど正体がありません。駒井甚三郎も提灯の光で、マドロスのずう体[#「ずう体」に傍点]を見て困ったものだと思いました。
 それはもとより、生命に別条があるのではなく、マドロスは泥酔したために、この通り正体もなく地上に眠っているのです。
 人間は、少し足りないくらいで、危険性は持っていないが、隙《ひま》があれば酒を飲みたがり、その酒は地酒でも、悪酒でも、焼酎でも、振舞酒でも、自腹でもなんでもかまわず、飲ませる者があり、飲む機会さえあれば、かぶりついて辞するということを知らない。酔うと、外国人としての勝手違いと愛嬌がいよいよ発揮されるものだから、それを面白いことにして、とっつかまえて、強《し》いる者もある。
 こんなにして、途上に酔いつぶれて、駒井を困らせたのは、もうこれで三度目です。このままにして置いては悪いが、そうかといって、呼びさませばなお始末が悪いかも知れぬ。第一、持運びにも困難だ。
「よし、誰か取りによこそう、このままにして置け」
 苦りきった駒井は、茂太郎を促して、その場を去ってしまいました。
 そうして、駒井は陣屋へ帰って来て、内外を一巡して見たが、マドロスの不在のほかには、別に異状がありません。
 兵部の娘も、金椎《キンツイ》も、おのおの、牀《とこ》について、安らかに眠りに落ちているようです。
「茂君、お前、もうよろしいからお休み」
 提灯を消して、蝋燭《ろうそく》の煙をながめていた茂太郎が、
「殿様、マドロスさんをどうしましょう」
「そうだな」
 駒井は思い出したように、
「貞さんを呼びましょうか」
「もう寝ているだろう」
「起しましょうか」
「気の毒だ」
「では、金椎さんと、わたし、二人で行ってマドロスさんを、かついで来ましょうか」
「金椎もよく寝ているのにかわいそうだ、それに二人の力ではかつげまい、まあ、いいから、ほうって置け」
「では、マドロスさんを今晩中、あのままにして置きますか」
「一晩、すずませてやれ、生命には仔細あるまい、そのうち酔いがさめると、ひとりで帰って来る」
「では、かまわないで、ほうって置いてみましょうか。でも狼に食われるといけませんね」
「そんなことがあるものか、よしよし、お前はお休み」
「では、殿様もお休みあそばせ」
 こう言って、茂太郎は、おとなしく、自分の部屋に戻りました。
 自分の部屋といううちに、この子は部屋を二つ持っている。ある時は金椎と枕を並べ、ある時は兵部の娘のところに居候をする。
 こんな場合には、兵部の娘を驚かさないで、金椎の部屋に行くのを例とする。少しぐらい、物音を立てても、金椎の夢を驚かすことはないが、兵部の娘は、ささやかな物の動揺にも目をさます。
 茂太郎は、金椎のよく眠っている面《かお》を見ながら、自分も帯を解いて、それと並んだ蒲団《ふとん》に寄添うようにして、枕につきました。
 駒井甚三郎は、どっかと椅子に腰を卸した。けれども、急に眠ろうという気にはなれません。それはあえて、路傍へ寝かしておくマドロスのことが気になるからではありません。時としては、こんな際に、また研究心が突発して、卓子《テーブル》に向き直り、寝ないで一夜を明かすこともあるのです。
 だが、駒井はこの際、別に新しい研究にとりかかる様子もなく、椅子に反《そ》り返って、腕を組み、キャンドルをながめてボンヤリと考えている。だが、それは必ずしも屈託の色ではなく、自分の計画が、ともかくも着々と進んで行きつつあることに、かなりの安心と、満足とを持っての沈黙であることもわかります。この様子で見ると、先日の蒸気機関引上工事も、多分成功したらしい。
 あれを引上げることに成功すれば、そのまま使用ができないまでも、それを参考として、必ず相当なものを、新たに作り上げるだけの自信が出来ているはず。
 そこで、次に来《きた》るべきものは、その蒸気機関に使用すべき燃料のことです。
 駒井の新たなる調査とか、研究とかいうことは、勢いそこまで進んで来るのが当然で、その次には、船がいよいよ竣工して、その乗組員と積込物資のこと。
 まあ、ここにいて生活を共にする者の全部と、工事を助ける者の一部分とは、同乗することになっているが、指を折ってみると、
 第一、自分というもの、次に、金椎、次に、茂太郎、次に、マドロス、それから、兵部の娘――あの娘も、今では健康も、精神状態も、常態に復したといってよい。あの分なら大丈夫だろう。別に田山白雲が、ぜひとも自分の妻子を伴って参加を申入れている。その他、夫婦共稼ぎで乗組みたいというものが、この地で自分が養成した工人のうちに若干ある、そのうちから選抜すること。植民には女性が要る、同時にまたその女性にも、植民の母という資格が無ければならぬというようなことを、駒井が、うつらうつらと考えはじめました。
 その時に駒井の頭の中にも、お松という女の子のことが、計数と考慮の中に入って来ました。植民の将来の母として、あのお松のような子がぜひ欲しいものだ、と思わせられました。
 それに、あの娘には自分として、切っても切れぬ恩義を蒙《こうむ》っているといわねばならぬ。自分のあやまちから、日蔭に置いてある、まだ見ぬ子――自分にとっては、この地上でただ一人の血をわけた、しかも、男の子というのを、あの娘が預かって育ててくれている。いよいよ日本を立つ時は、どうしても、それに一応の挨拶無しでは立たれない。
 駒井は、また既往のことと、自分のあやまちとを考え来《きた》ると、例の生一本に自分をにくみきっている奇怪なる小さい男――宇治山田のなにがしと名乗る男について、考えさせられないわけにはゆきますまい。
 その時分に、時計の二時が鳴る。
 ああ、もう二時だ、丑三時《うしみつどき》だ、寝なければならぬと気がついた時、ふと思い出したのは、酔いどれのマドロス氏のこと。
 捨てておいても大事はないと信じているが、それでも気にかかる。
 あいつは憎めない男だから、傍へ置いてみたが、今は単に愛嬌者としてでなく、実用の上に無くてはならぬ男になっている。
 彼は、下級労働者ではあるが、外国の事情と、航海の知識等については、経験上から珍重すべきものを持っている。本は読めないが、言葉を研究するには、悪い参考とばかりはならない。それのみならず、船乗りとしての生活の前には、到るところを渡り労働者として歩いているから、何かと経験もあり、小器用でもあって、時には信じ過ぎ、買いかぶって苦笑いに終ることもあるが、大体に於て、この男から得るところのものは、決して少なくないことになっている。
 現に――すでに、機関の方の目鼻があいてみると、次に当然|来《きた》るべきものは、燃料の問題でなければならぬ。
 そこで、駒井甚三郎は、一方天文を研究して船の航路学の準備をすると共に、地質をたずねて、石炭――というものに多大の注意を払いはじめたのは、この頃のことです。
 石炭――に就て駒井甚三郎が注意を払っていたのは、今に始まったことではありません。
 燃ゆる水、燃ゆる土の、半ば伝説的時代はさておき、近代に於ては、九州地方に於て、ひそかにこれを採掘して実用に供している住民のあることを駒井は認めている。
 日本の当局者も、心ある者は、近き将来に、この新たなる燃料の大量需要の来《きた》るべきことを予想し、どうしても、日本内地にその豊富なる鉱山を見出さねばならないことを痛感している。現に不肖ながら、自分もその先覚者の一人で、年来、ひそかに有力な石炭の産地というものに目をつけていないではなかった。幕府にある時は、それぞれの系統をたどって、各地からの報告を取寄せ、今でもそれの参考資料をかなり集めている。
 最も有望といわれる産地、九州地方はさておき、江戸を中心としては静岡地方――それから常陸《ひたち》から磐城《いわき》岩代《いわしろ》へかけて、採炭の見込みがある。それから燃ゆる土、燃ゆる水の発祥地なる北越地方――その辺の古い記憶や、報告資料を調べ、その結果は、ここ安房《あわ》の洲崎《すのさき》を最寄りとしては、常陸、磐城の海岸筋の鉱脈に当りをつけるのが順当だと思っていたのです。
 しかし、これは罷《まか》りまちがえば、外国艦から融通を受ける道もある。僅か一艘の手製の船に使用するために、わざわざ一つの炭鉱をさぐり、それを採掘してかかるまでのことはあるまいとは思っているが、さりとて事ここに至ると、駒井の研究心は、外国物資の融通だけでは甘んじきれなくて、後人のために、この際、附近の炭山について、若干の研究を残しておきたいという好学心も手伝ったものでしょう。
 そこで一つ都合のよいことには、このマドロス君が前生涯に一度、炭坑の坑夫として働いていたことがある。メリケンのペンシルヴァニアというところで、ほんの僅かの間ではあったけれども、炭山の経験があるということを耳にしたから、この男を引きつれて明日にも、常磐の山に鉱脈をさぐろうと心がけていた際であります。
 困った奴だ――人間はごくいいのだが、ちょっと眼をはなすと、とめどもないだらし[#「だらし」に傍点]なさを曝《さら》す男、危険性はないが、それでも眼のはなせない男。
 こういう際には、田山白雲のことを駒井がかなり痛切に思い出す。白雲が存在すれば、マドロスは一たまりもない。白雲によって悪い方は慴伏《しょうふく》される。悪い方が慴伏されると勢い、いい部分だけの能力を現わすから、マドロスを抑えるには白雲に限る。ところがそのマドロスをおさえの役は只今、銚子から利根、香取、鹿島に遊ぶといって出て行ったきり、まだ帰って来ない。当人、日を限ってはいたが、いつ帰って来るか、ちょっと当てにならないものがある。
 今夜のような醜態を、かりに白雲に見られたとすれば、マドロスは有無《うむ》をいわさず、叩き起されて、二つや三つのびんた[#「びんた」に傍点]を食《くら》うことはわかっている。
 その荒療治は、駒井の得意とするところではない。
「さて、どうしてやろうかな」
 この際駒井が、ふいと、心頭を突かれたのは、いつぞや、あの大嵐の前後、難破船から投げ出されたお角という女を、平沙《ひらさ》の浦から拾い上げた時、前後して、自分の手許《てもと》から消え失せて、全く行方不明な船大工の清吉のことです。
 清吉は朴訥《ぼくとつ》な男、造船工事では自分の右の腕としていた男だが、あの際に、行方を見失ってしまった。死んだものなら、死んだと見きわめをつける
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