あれで分別盛り、べつだん高上りをしているわけでもないが、四十八貫目の泥棒は骨だろう、あいつも小力《こぢから》はありそうだが、四十八貫目では、ちょっと持ち出せまい、危ねえものだテ……」
主膳は、憮然《ぶぜん》として、七兵衛の立去ったあとを見ていると、七兵衛が立去る時に合羽の裾で揺れた牡丹の葉が、まだ一生懸命に首を振っている。
三十七
駒井甚三郎は、今晩、遠見の番所の附近へ新たに立てたバルコン式の台上にのぼって、天体を観察している。
駒井が、天体を観察するの余裕を得たことは、それだけ、海と船との事業が滞りなく進捗している証拠であります。さりとて、海を行く者が天を観ることは必須であります。駒井が天文の趣味と、天体の観察は、今に始まったことではないが、船の方の工事に、すっかり安心が出来た故にこそ、今度はこうも落着いて、専門的に天を観ることに取りかかったその態度、空気は容易《たやす》く見ることができるのであります。
事実、駒井のこのごろは、船の工事の監督が三分の、天文の研究が七分といってもよいほどに時間を割《さ》いているのです――無論、昼は天文学と共に相関聯した航海学、六分儀の使用、海図研究――夜はこうして天体の実測観察。
駒井が天体を観察する傍らに、清澄の茂太郎が立っている。小脇には例によって般若《はんにゃ》の面《めん》をかいこみつつ、
「殿様、歌をうたってもようござんすか」
「お歌いなさい」
お許しが出たものだから、澄み渡った夜の外房の空に向って、得意の即興詩がはじまる。
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さて皆さん
皆さんは
この大地は
四角なものだとか
或いは平らなものだとか
お考えでございましょう
ところが違います
この大地は丸いものです
丸い毬《まり》のようなものです
丸い毬のようなものが
ブラリと大空の中に
ブラ下がっているのです
それを嘘だと申しますか
嘘ではございません
どうして丸いものが
大空の中に
ブラ下がっています
針金で留めてありますか
紐《ひも》で下げてありますか
ネジでまいてありますか
そんなら、その
針金と、紐と、ネジは
どこにあります
その針金と、紐と、ネジを
かける柱はどこにあります
壁はどこにあります
そんなことを知りたければ
駒井の殿様に
聞いてごらんなさい
殿様は学者ですから
その理窟を知っています
ですけれども
その理窟を知る前に
皆さんは
三角形の内角の和は
常に百八十度であるということと
多角形の外角の和は
常に三百六十度であるということを
知っておかなければなりません
三百六十
三百六十
三百六十
三百六十
三百六十
三百六十
三百六十
三百六十
三百六十
三百六十
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そこで茂太郎は足ぶみをして、踊りをはじめてしまいました。
「もう、わかっているよ」
駒井は、望遠鏡をのぞきながら言う。茂太郎は調子をかえて、
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一度を
六十に分ければ
分《ふん》となる
一分を
また六十に分けて
それを秒という
だから三百六十度を
分でいえば二万一千六百分
秒でいえば百二十九万六千秒
百二十九万六千秒
百二十九万六千秒
百二十九万六千秒
百二十九万六千秒
百二十九万六千秒
百二十九万六千秒
百二十九万六千秒
百二十九万六千秒
百二十九万六千秒
百二十九万六千秒
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茂太郎は、片手を高く差し上げて、天文台の板敷の上を、踏み鳴らして踊り出しました。
争われないものです。
駒井甚三郎の傍に置くと、この子は、鼻が十六だの、眼が一つだのという即興をうたわない。
それは散文ではあるけれども、立派に数理の筋が通っています。弁信が干渉するように、道義を吹込んではいないけれど、数理を外《はず》れるということはありません。
しかし、どちらにしても、茂太郎の歌う心と、調べとは、反芻《はんすう》の出鱈目《でたらめ》に過ぎません。多分、その詞句をかく歌えと教えられるからその詞句を、しかくうたうだけに止まったものです。
ああして弁信は茂太郎の歌に干渉し、こうして駒井は茂太郎に数理を教える。茂太郎自身としては方円の器《うつわ》に従いながら、詩興そのものは相変らず独特で、調律と躍動そのものは、例によっての出鱈目です。誰もそこまで干渉して、新たに作曲を試みて彼に与えようとする人は、まだ見出されていないのであります。
その時分、駒井は天体のある部分――たとえば大熊座と小熊座の間のあたりに、何か異状を認めたらしく――望遠鏡に吸いつけられて、茂太郎の歌も聞えない。まして、その音律や行動に干渉を試むる余地もなく、全く閑却していると――いつもならば、その歌を聞いて、よく覚えたと賞《ほ》めたり、間違ったところを訂正したり、なお新知識を授けたりするところを、今は全く閑却しているものですから――茂太郎の歌が、そこでひとたび途絶えました。
やがて、暫くあって、一段高いところで、一段のソプラノが起るのを聞きました。
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西は丹波カラサキ口
東は伊賀越えカラサキ口
和田の岬の左手《ゆんで》より
追々つづく数多《あまた》の兵船《ひょうせん》
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眼鏡に吸いつけられていた駒井甚三郎が、この声で、驚かされて見上げるところ、台の上からなお高く立てられた番所の旗竿のてっぺんまで、この子は上りつめて、そこで般若の面は頭上にのせたまま、片手で、しっかり旗竿につかまり、片手は播磨屋《はりまや》をきめこんで小手をかざして海のあたりをながめているのは、多分、江戸へ見世物にやられた時分、どこかの楽屋で、見よう見まねをしたものの名残《なご》りかと思われる。それを仰いだ駒井は、
「あぶない、降りておいで……」
「はい」
返事はしたが、茂太郎は急には降りて来ようとしない。急に降りて来ないのみならず、なおこの旗竿に上があるならば、上りつめたい気持らしくも見える。百尺の竿頭を進めるという言葉は知るまい。知っているとも、その意味はわかるまいが、この子供は、いつも尖端《せんたん》を歩きたがる子供である。いや、自分は尖端を歩きたくはないが、ある力があって、どうぞして、この少年に尖端を行かせようと、押し上げているもののようにも見える。さればこそ、山に入って悪獣と戯れ、沢に下って毒蛇と親しむことを得意とするこの少年が、両国橋畔の、人間という群集動物の最も多く集合する圏内に曝《さら》されたりなんぞする。
それはそれとして、行き行きて止まるところまで行かねばやめられないこの少年は、狭い房総の半島にいて、どちらに行っても海で極まってグルグル廻り、廻りそこねてついに海の領分にまでいったん陥没するところまで行っている。山に於ては、もう房総第一の高山を極めつくしている。旗竿でもなければ、もうこの天地にいて尖端を極めるところはなかろうと思われる――降りろといっても、急に降りられない立場にいることも無理はありますまい。
「ね、おとなしく降りておいで」
「はい」
降りるよりほかに道はないと見きわめた時、スルリと降り立ってしまいました。
下に降り立つと共に茂太郎は、
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シイドネックス
ナンバンダー
ライドネックス
ナンバンダー
テント、テント
ナンバンダー
スウイッ、スウイッ
ナンバンダー
[#ここで字下げ終わり]
こう言って、口ずさみながら、小踊りをはじめた時に、駒井が、
「茂君、君の眼はなかなかいい、わたしの眼よりいいかも知れない、ひとつ、この眼鏡をのぞいて見給え」
「はい」
「静かに、度を乱しちゃいけない、このままで、じっと鏡の向いた方の空を静かに見ていてくれ給え、そうして、何か星があるか、星が無くとも薄い光でもあるか、光が無くても、ボーッとした空の色よりも白いものが現われているか、いないか、それをお前の眼でひとつ見てくれ給え」
「はい」
茂太郎は、プレアデスの星を、七ツ以上も見る眼を持っていることを駒井が知っている。
そこで、駒井が改めて、眼鏡を茂太郎に譲って、自身はその傍らに報告を待っていると、暫くあって、茂太郎が、
「見えますよ、殿様、ちょうど、この眼鏡の真中より少し北へ寄ったところに、たしかに一つの星がありますね」
「そうかい」
「あります、よく気をつけて見れば、星がたしかにあることをうけあいます」
「そうか、そうあるべきはずなのだが、わしには見えなかった、どれひとつ代って……」
そこで、また駒井は茂太郎に代って、再び同じ地位で眼鏡をのぞきながら、
「なるほど……君にそう言われて見ると……」
「ありましょう」
「ある、ある」
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とっつかめえた
とっつかめえた
星の子を
とっつかめえて
五両に売った
五両、五両
五両の相場は誰《た》が立てた
八万長者の
ちょび助が……
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またしても、奔放と、逆転に帰ろうとするのか。駒井がさえぎって、
「茂君、お前に歌らしい歌の文句を教えてあげよう、それを歌って見給え」
即興を科学の正道に引戻そうとする。
「有難う、教えて下さい」
「まず文句だけを覚えておき給え、いいか」
「はい」
「星の歌だよ」
「はい」
そこで、茂太郎は、駒井から教えられようとする歌の文句を神妙に覚え込もうとして、しばらく沈黙していると、駒井は望遠鏡をのぞきながら、おもむろに、
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(駒)天王星ノ彼方《かなた》ニ
(茂)天王星ノ彼方ニ
(駒)天王星ヲ狂ワス
(茂)天王星ヲ狂ワス
(駒)マダ一ツノ星ガ
(茂)マダ一ツノ星ガ
(駒)無ケレバナラヌコトガ
(茂)無ケレバナラヌコトガ
(駒)学者ヲ悩マシタ
(茂)学者ヲ悩マシタ
(駒)ソレヲ幾何学ノ上デ
(茂)ソレヲ幾何学ノ上デ
(駒)立派ニ発見シタ
(茂)立派ニ発見シタ
(駒)西洋ノ暦デ
(茂)西洋ノ暦デ
(駒)千八百四十六年ノ八月ノ三十一日
(茂)千八百四十六年ノ八月ノ三十一日
(駒)「フランス」ノ
(茂)「フランス」ノ
(駒)「ヴェニニ」トイウ
(茂)「ヴェニニ」トイウ
(駒)幾何学者ガ
(茂)幾何学者ガ
(駒)空ヲ見ナイデ
(茂)空ヲ見ナイデ
(駒)机ノ上ノ理論ト計算カラ
(茂)机ノ上ノ理論ト計算カラ
(駒)天王星ヲカキ乱ス
(茂)天王星ヲカキ乱ス
(駒)知ラレザル存在ノ星ハ
(茂)知ラレザル存在ノ星ハ
(駒)コレコレノ時間ニ
(茂)コレコレノ時間ニ
(駒)コレコレノ大キサデ
(茂)コレコレノ大キサデ
(駒)コレコレノ空ニ
(茂)コレコレノ空ニ
(駒)存在シテイルニ相違ナイ
(茂)存在シテイルニ相違ナイ
(駒)トイウコトヲ
(茂)トイウコトヲ
(駒)天ヲ見ナイデ
(茂)天ヲ見ナイデ
(駒)机ノ上ノ研究ダケデ
(茂)机ノ上ノ研究ダケデ
(駒)断定シテ発表シタ
(茂)断定シテ発表シタ
(駒)コノ発表ニモトヅイテ
(茂)コノ発表ニモトヅイテ
(駒)「ベルリン」ノ天文台長
(茂)「ベルリン」ノ天文台長
(駒)「ガール」トイウ人ガ
(茂)「ガール」トイウ人ガ
(駒)数日ノ間
(茂)数日ノ間
(駒)示サレタ通リノ天空ヲ
(茂)示サレタ通リノ天空ヲ
(駒)最良ノ望遠鏡デ
(茂)最良ノ望遠鏡デ
(駒)観測シテイルウチニ
(茂)観測シテイルウチニ
(駒)果シテ発見シタ
(茂)果シテ発見シタ
(駒)「ヴェニニ」ガ
(茂)「ヴェニニ」ガ
(駒)机ノ上デ断定シタ通リノ
(茂)机ノ上デ断定シタ通リノ
(駒)位置ト形ト時間トノ
(茂)位置ト形ト時間トノ
(駒)寸分違ワヌ
(茂)寸分違ワヌ
(駒)実在ノ星ヲ
(茂)実在ノ星ヲ
(駒)天空ニ確認シタ
(茂)天空ニ確認シタ
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ここまで述べて、駒井は息を切り、
「どうだ、茂坊、わかったか」
茂太郎はうっかりと、
「どうだ、茂坊、わかったか」
「はは、それは言わんでもいいのだ、この文句をお前も覚えておいて、筋道を立ててうたうことにしなさい」
「でも面白かありませんね、論語よりむずかしい」
「覚えこめば雑作《ぞうさ》ないよ、さあ、ついでだから、
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