》というものが、ちょっと見出し難いものと見えます。
 そこで米友が、引きぞわずろうという気持で、躊躇をしている間に、
「あっ!」
といって、舌を捲いて躍《おど》り上りました。そのクリクリした眼を、踊り子の連鎖の一方、つまり或る一人だけに注いだ米友が、
「あっ!」
と、二たび、三たび、地団太を踏んだのは、そこに破綻を見出したのではなく、そこに特別に何か興味の中心を見出したものでなければなりません。
「あっ!」
 二度、三度、叫んで、地団太踏んだ米友が、その時こそ、ほんとうに鉄砲玉のようになって、いま、自分が見つけ出した興味の中心――つまり、踊り子の中のちょうど、巽《たつみ》の方角にいた一人の若い娘の方に、無二無三に飛びかかってしまいました。
 この時になって、群衆の興味が踊りの方面だけに取られてはおりませんでした。
 むっくり起き上った時は、さほどではありませんでした。荷物をかつぎ上げた時も、杖槍を拾った時も、まだ見物に向ってなんらの注意をも呼ぶに足りませんでしたけれども、いよいよ立って一方を突破しようとして、小さな仁王立ちで、あたりを一睨《いちげい》した時分から、第三者としての見物の注意がようやくこの存在に向って来ました。
 一角に何か事ありと見て、異様な叫びを立てながら、二度、三度、躍り上って地団太を踏んだ時分には、それに当面していた者の注意を免《まぬか》れることは全くできませんでした。
 それと同時に、どっと、失笑の声が湧き出したのは是非もありません。
 この男の、ムキになった狼狽ぶりは、知っている者は気にしないが、はじめて見る人にとっては、絶大なる驚異と見られることも多いのです。子供たちは稀れにそれを恐怖を以て見ることもあるけれど、御当人が真剣であり、御当人が困惑すればするほど、周囲の人には、滑稽であり、無邪気であって、最も好意ある失笑を以て報われないという例《ためし》はないのです。
 今もその例に洩れず、まじめに狼狽しはじめたグロテスクの存在が、ハッキリと浮き出したために見物以外の見物が、見るほどの人をあっけに取らせました。そのとき早く、桜の樹からは巽の方面に踊っていた一人の娘のところへ行って、委細かまわず飛びついてしまって、
「お前《めえ》……お前」
 米友は烈しく吃《ども》って、
「お前は、よっちゃん[#「よっちゃん」に傍点]じゃねえか」
と叫びながら、無理にその女の子をゆすぶったものです。
 そこで、踊りの情景が粉砕される。
 袂を取られて、この怪物に喰いつかれた娘は面《かお》の色を変えて驚いたが、小突き返されていながらそのグロテスクの面影をチラリと見て、
「おや、お前さんは米友さんじゃないの」
 こう言って、色を立て直したものですから、
「おお、お前、ほんとうによっちゃん[#「よっちゃん」に傍点]だな、おいらあ、米友だよ」
 彼は、その昂奮した顔面を、すりつけるように、自分が、よっちゃんと呼びかけた娘にちかよせると、たじたじと後ろにさがりながら、
「怖《こわ》い、米友さんは米友さんに違いないと思うけれど、米友さんのはずがない、本当の米友さんのはずがないわ、わたし怖い、全く別の人か、そうでなければ、米友さんの幽霊でしょう、怖いわ、わたし逃げるわ」
 こう言って、せっかく立ち直った面の色をまた変えて、隙を見て、転ぶように逃げ出しました。
「違えねえんだよ、本当の米友だよ、本当の友がおいらなんだよ、だから、よっちゃん、間違えねえんだぜ」
 こう呼びながら、米友は、その娘の跡を追いかけて、再び袂を捉えようとしたものですから、事が大きくなりました。
「怖いわよう、放して下さい」
 娘は顛倒して走りました。
「違やしねえんだよ、友だよ、網受けの米友なんだよ、お前《めえ》が本物のよっちゃんなら、おいらも本当の米友なんだよ、面を見たらわかりそうなものじゃねえか」
と叫びながら、追いかける。混乱したのは、それを見ていた同連と群衆だけではありません。
 米友自身の言うところも、怖れておるところの娘の挙動も、何が何だかわかりません。
 しかしながら、驚愕と、恐怖とで、夢中で走り出した娘の足と、あっけに取られている四方の人の慌《あわ》てふためいている間に、再び走りかかった米友が、右の娘の袂をつかまえて、全く動かさないことにしてしまったのは、雑作《ぞうさ》もないことで、
「ね、よっちゃん、もう一ぺん、よくおいらの面《かお》をごらん、米友に違えねえだろう」
と、三たびその面を摺《す》りつけました。
 摺りつけないまでも、遠眼で見たって、一たび見覚えのある者にとっては、この男の面は忘れようとしても、忘れられない記憶となっているはず。
「あ、友さんに違いない、けれども、わたしの知っている米友さんは、もう生きていないんですもの」
 娘は恐怖のあまり、つきつけられた米友の面《かお》を見まいとして、両手で自分の面をかくします。
「ところが、生きてるんだよ、この通り、生きてるんだ、間違いはねえのですからね、よっちゃん、そんなに、むずからねえでもいいや、正《しょう》の米友だよ」
「いいえ、わたしの知ってる米友さんは、たしかに死にました」
「ちぇッ、だって、当人がここにいて、生きていると言ってるじゃねえか」
「そんなはずはありません、友さんは死んじゃったのです、お前さんは別の人か、そうでなければ、米友さんの幽霊に違いありません」
「ちぇッ――別の人がおいら[#「おいら」に傍点]だなんて言うかい、ニセモノをこしらえたって、ニセモノ栄《ば》えがしねえじゃねえか」
「放して下さい――怖いから」
 これはホンの一瞬時の出来事でしたが、この辺に至って第三者が承知しません。
 第三者は皆、米友を以て、兇暴性を帯びた色きちがいかなんぞと勘違いをしていないものはない。娘を引離すより先に、米友を手ごめにかかりました。
 その時、米友の頭脳《あたま》にハッとひらめくものがあったのは
「よっちゃん、お前、ほんとうにおいらが死んでると思ってるのかい。そうだそうだ、それも無理は無《ね》え、それから後のことをお前は知らねえのだ。おいらは助かったんだよ、尾上山《おべやま》から突き落されて、一旦は死んだが、助ける人があって、息を吹き返したんだぜ。それをお前は、本当に死んだものと思いこんでいるんだろう。助かったんだよ、助かって、そうして今まで生きていたんだ、今まで生きているうちには、ずいぶん辛《つら》いこともあらあ――」
 この弁明が、意外に利《き》いたらしいので、娘が面を上げ、
「ほんとう――」
「ほんとうだとも、話せば長いけれど、盗みもしねえのに、盗人《ぬすっと》だなんて人違いでお処刑《しおき》に逢って、ほら、尾上山の上から突き落されたには落されたけれど、人に助けられちまったんだ。その人というのは、ほら、お前も知ってるだろう、船大工の与兵衛さんと、お医者の道庵先生でね、その先生のおともをして、おいらは昨日、こっちにやって来たばかりなんだ」
「ほんとうなの、友さん」
「ほんとうだよ、ほら、幽霊じゃねえや、足があるだろう」
 そこで、米友は、また二三度飛び上って、足のあることの証明をして見せました。
 娘は笑いませんでした。笑わないけど、恐怖は早くもその面から消え失せて、
「ほんとうなの?」
「嘘じゃねえというに。お前は疑ぐり深え人だなあ」
「ほんとうにお前が米友さんなら、わたし、こんな嬉しいことはないわ」
「おいらだって、おんなじことだよ、お前がほんとうによっちゃん[#「よっちゃん」に傍点]なら、その次に嬉しくってたまらねえんだ」
と米友が言いました。心あわてているとはいえ、米友の言うことにはかなり不透明なところと、ひとり合点《がてん》もあるらしいが、娘を相当に納得せしめ得たことは疑いないらしい。
「まあ、嬉しい」
「おいらも、嬉しい」
「友さん、まあ、よく無事でいてくれたわねえ」
「あ――おいらも苦労したよ」
「ほんとうに――」
 二人は、そこで、人目も恥じずに抱き合ってしまいました。
 知ると、知らざると、弥次であると、弥次でないとにかかわらず、この急激なる妥協が、すべてのあいた口をふさがらせないことにしました。

         二十八

 この人騒がせも、後になって接待の茶屋で、二人の無邪気な会話を聞いていれば、なんのことはないのです。
 読者諸君は御存じのことでしょう、伊勢の古市《ふるいち》、間《あい》の山《やま》の賑《にぎ》わいのうちに、古来ひきつづいた名物としての「お杉お玉」というものの存在を――
 そうして米友の唯一の友であり、兄妹であるというよりは、一つの肉体を二つに分けて、その表の方を米友と名づけ、その裏をお君と名づけたかのようにしていた、そのお君という子の芸名がお玉であったことを――
 それと同時に、お君のお玉と相棒になって、胡弓をひき、撥受《ばちう》けをいとなんで、さのみ見劣りのしなかったうたい手に、お杉がなければならなかったことを――
 今、ここで米友が「よっちゃん」と呼びかけてかぶりついた踊り子の娘が、すなわちこのお杉でありました。
 まあ、二人の無邪気な会話を聞いていればいるほど、筋はよく通ったものです。
「ねえ、友さん、君ちゃんにも、お前にも行かれてしまったあとの、わたしのツマらないこと察してごらん、一日だって忘れたことはありゃしませんよ、いどころぐらい知らせてくれたっていいじゃないの」
「そりゃあね、知らせるのは雑作もねえが、おいらたちは罪人扱いなんだからな、うっかり便りをしようものなら、こっちも危ねえが、お前たちの方にも、かかり合いになると悪いと思ってね」
「友さん、その事なら、もう大丈夫よ。あの晩、備前屋さんへ入って、江戸のお客様のものを盗《と》ったのは、君ちゃんではないこと、友さんでもないこと、そりゃわかりきっているけれども、証拠が物を言ったあの時のことでしょう、どうしようもなかったのね。それが今となっては、すっかり晴れてしまって、誰だって一人も、友さんや君ちゃんを疑ぐってるものはありゃしません、お前さんたちは、大手を振って国へ帰れるようになっているのよ」
「そうかなあ」
「そうだともお前、あの時の泥棒は別にあって、名乗って出たんですとさ」
「どこの奴だい」
「名乗って出たけれど、まだつかまらないんですとさ」
「おかしいなあ、名乗って出た奴がつかまらねえというのは」
「そんな事は、どうでもいいのよ。それでね、土地の人も、お前さんたちを、大へん気の毒がって、友さん、お前のお墓が、もうちゃんと出来ているのよ」
「おいらのお墓が出来てるのかい」
「ええ、お前さんは、たしかに尾上山から突き落されて、お処刑《しおき》になってしまったんだから、正直者がかわいそうに、むじつ[#「むじつ」に傍点]の罪で死んだといって、皆さんの同情が集まって、今では米友|荒神《こうじん》という荒神様が出来て、それがお前のお墓になっているんだよ」
「ばかにしてやがら」
 米友が唇を反《そ》らして嘯《うそぶ》きました。現在こうしてピンピン生きている者のお墓をこしらえた上に、荒神様に祭り上げるなんて、洒落《しゃれ》が過ぎてらあ! とでも思ったのでしょう。
「ばかにするつもりでしたんじゃないのよ、友さんがかわいそうだ、気の毒だ、盗りもしない盗人《ぬすっと》の罪に落ちて殺されてしまったと思うから、みんなして、荒神様をこしらえてしまったのよ、こうして生きていると知っていれば、誰がそんなことをするものかね」
「そりゃ、そうかも知れねえが、生きている時は、さんざん人を粗末にしやがって、死んだと思って荒神様に祭り上げるなんて、ほんとうにばかにしてやがら」
「悪く取っちゃいけないよ、友さん、たとえ荒神様だって神様のうちだろう、生きていて神様に祭られるなんて、結構じゃないか。それでお前の方は死んだものと、みんなあきらめているが、お君ちゃんばっかりは、生きているのか、死んでいるのか、ちっともわからないんだもの」
「うむ……そのはずだ、生きているか、死んでいるかわかるめえ」
「ことに、
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