しまったのは、見るも無残のことであります。
 しかしながら、それらの災難も、道庵先生の受けた災難に比ぶれば、物の数ではありません。
 主催者であるが故《ゆえ》に、主謀者であり、危険思想家の巨魁《きょかい》と見做《みな》された道庵が、一たまりもなく捕手の手に引っとらえられ、調子を食って横面《よこっつら》を三ツ四ツ張り飛ばされ、両腕をだらりと後ろへ廻されて、身動きのできなくなったのは、ホンの瞬間の出来事でありました。
 祭壇に飾られた、田《たな》つ物、畑《はた》つ物、かぐの木の実は、机、八脚と共に、天地に向って跳躍をはじめました。
 ただ、問題の竹藪《たけやぶ》の中へ押立てられた木柱のみは、後生大事に――これは後日の最も有力な証拠物件となるのですから、汚損のないようにと抜き取られて、有合せの菰《こも》に包まれました。
 ところで、すべての人は逃げちりました。逃げ散ったものはお構いなし、すでにこの呑舟《どんしゅう》の魚であるところの道庵先生を得ているのだから――
「こいつは驚いた、こいつはたまらねえ」
 道庵は、やみくもに驚いてしまって、
「こいつはたまらねえ、これには驚いた」
と繰返して、ひとりで足をバタバタさせているほかには為さん術《すべ》を知りません。
 ようやくにして、次の言葉だけを歎願することができました。
「どうぞおてやわらかに願《ねげ》えてえものでがんす、借物ですからね、こう見えても、この烏帽子《えぼし》直垂《ひたたれ》は、土地の神主様からの借物でげすから――自分のものなら質の値が下ってもかまわねえけれど、借物だから、おてやわらかに願えてえもんでがんす」
 さすがに道庵先生は、江戸ッ子です。この場に及んでも、自己の一身上のための弁疏《べんそ》哀願は後廻しにして、まず借物にいたみのないようにと宥免《ゆうめん》を乞うのを耳にも入れず、
「たわごとを申すな」
と情け容赦もなく捕方は、ポカリと食わせます。
「こいつは驚いた、こいつはたまらねえ」
 道庵も混乱迷倒してしまいました。
 かかる折柄、米友が居合せなかったことの幸不幸は別として、米友は、さいぜん、木材を持ち来《きた》って一応の使命をおえた後に、程離れた世話人のところまで、風呂をもらいに行き、兼ねて夕飯の御馳走になっている時でした。

         七

 その晩のうちに、極めて無事に、名古屋の城下へ護送されて行く道庵と米友を見ます。
 名古屋の城下といっても、ここからは、僅かに一里余りの道のりですから、別段、トウマルカゴ[#「トウマルカゴ」に傍点]の用意も要らず、有合せの四ツ手|駕籠《かご》の中で、祭典の前祝いの追加が、この時分になって利《き》き出したものか、道庵は護送の身を忘れていい気持になってしまいました。
 いい気持になって、ここではじめて道庵は、護送の役人を相手に、自分たちがこのたびの旅行の目的と、併せて、決して自分たちが危険人物でないということの弁明を試みました。
 その言い分を聞いてみるとこうです――
 上方《かみがた》へ行くについて、東海道筋は先年伊勢詣りの時に歩いたから、今度は中仙道筋を取ってみたこと、中仙道筋を通りながら、どうして、この東海のパリパリ、尾張名古屋の方面へ乗込んで来たかというに、そこにはそこで立派な名分があること。
 それは、東海道でも尾張の国は、中枢の国であって、この国を除《の》けて東海道は意味をなさないのに――東海道、東海道と、いっぱし海道をまたにかけたつもりの旅行者が、大部分は、この尾張の国の中心たる名古屋の地を通過していないこと。
 ことに道庵の日頃尊敬しておかざる(?)ところの先輩、弥次郎兵衛氏、喜多八氏の如きすら、図に乗って日本国の道中はわがもの顔に振舞いながら、金の鯱《しゃちほこ》がある尾張名古屋の土を踏んでいないなんぞは膝栗毛《ひざくりげ》もすさまじいや、という一種の義憤から、木曾道中を、わざわざ道を枉《ま》げてこの尾張名古屋の城下に乗込んで来たのは、単に道庵一個の私事じゃない、江戸ッ子の面目を代表して、かつは先輩、弥次郎兵衛、喜多八が、到るところで恥を曝《さら》しているその雪冤《せつえん》の意味もあるということ。
 単にそれだけではない、この尾張の国という国は、日本国の英雄の一手専売所であるということ。頼朝がここに生れ、信長が生れ、秀吉が生れた――日本の歴史からこの三人を除いてごらんなさい、あとはロクでもねえカスばかりとは言わねえが、日本の英雄の相場はここが天井だね。
 苟《いやしく》も日本国民として、また江戸ッ子の一人として、そういうエライ国の真中へ、一応の御挨拶に行かねえけりゃ、義理人情が欠けるという愛国心で、名古屋へ一旦は入ったけれども、その足で城下は素通りして、真先に、この英雄の中の英雄、豊太閤の生れ故郷というところへ御挨拶に来てみたのだ。
 来て見るとあの通りの有様で、村はあるにはあるが、銀杏《ぎんなん》もあることはあるが、英雄の誕生地というのがどこだか、石塔も無けりゃあ、鳥居も一本立っちゃあいねえ。これでは日本一の英雄に対する礼儀じゃあるめえ――あんまり情けなくなったから、我を忘れて道庵が、自腹を切って記念祭を催し、いささか供養の志を表してみようとしたまでだ。
 あれが無事に済んだら、その次は信長、その次は頼朝と溯《さかのぼ》って、いちいち供養をして行くつもりであったということ。
 聞いてみれば、エライ物好きのようだが、一応筋は立っており、当人も案外学者だと思わしめられるところもあり、そうして道庵の淡々として胸襟《きょうきん》を開いた話しぶりと、城廓を設けぬ交際ぶりに、護送の役人も感心してしまい、これは弥次郎兵衛、喜多八より役者がたしかに上だと思いました。少なくとも一種のキ印には相違ないが、そのキ印は、キチガイのキ[#「キ」に傍点]ではなく、キケン人物のキ[#「キ」に傍点]でもなく、最も愛すべき意味の畸人《きじん》のキ[#「キ」に傍点]であることを、感ぜずにはおられませんでした。
 ただ役人を顰蹙《ひんしゅく》させるのは、この人物が、名古屋城下へ護送されることを物の数ともせず、ことに家老の平岩がどうの、成瀬がこうの、竹腰がああの、鈴木とは親類づきあいだのと、お歴々を取っつかまえて友達扱いにしていることだが、それも、秀吉や、信長を親類扱いにするほどのイカモノだから、こんな奴は早く城下へ連れて行って、体《てい》よく他国へ追放するに限ると思いました。
 かくてこの一行は、まだ宵のうち、無事に再び名古屋の城下へ送り込まれました。

         八

 尾張名古屋の城下へ足を入れたものは、誰もおおよそこの辺に留まって、お城の金の鯱《しゃちほこ》を眺めて行くのが例になっているから、その翌日の早朝に、旅の三人連れの者――うち二人は当世流行の浪士風のもの、他の一人は道中師といったような旅の者が、幅下新馬場《はばしたしんばば》の辻に立っていることも不思議ではありません。
 ただ朝とは言いながら、時刻が少々早過ぎるのと、そのうちの背の高い方の浪士が、あまり近く濠端《ほりばた》に進み過ぎていることと、それともう一つは、道中師風の若い奴が、従者にしてはイヤにやにさがっているのが気になります。濠端に進み過ぎた背の高い浪士が、
「おい、がんりき[#「がんりき」に傍点]、尾張名古屋の金の鯱を今日は思い入れ眺めて行けよ」
 後ろを顧みて、道中師風の若いのにこう言いました。
 その面《かお》を見ると、これはこの土地では初めて見る南条力の面であります。南条があれば、その傍にあるのは、当然五十嵐甲子男でなければならぬ。そうして従者ともつかず、道づれともつかぬ、いやにやにさがった道中師風の若いのは、いま南条の口から呼ばれた通りがんりき[#「がんりき」に傍点]といって、名代のやくざ者。
 ここで、南条、五十嵐と、がんりき[#「がんりき」に傍点]というやくざ者を見ることは、小田原城下以来であります。
 濠端に進み過ぎている傍まで、五十嵐が進み寄って、二人は金の鯱を横目に睨《にら》んで立っている。
 わっしゃあ、お前さん方の従者じゃあありませんよ、といったような面をして、こちらに控えてやにさがっているがんりき[#「がんりき」に傍点]のやくざ野郎は論外として、南条、五十嵐の二人を、こうして城濠のほとりに立たせて見ると、どうしても尋常一様の旅人ではなく、一種不穏の空気が、二人の身辺から浮き上るのを如何《いかん》ともすることができません。
 曾《かつ》て、甲府の城をうかがって、囚《とら》われの身となったのもこの二人でした。
 相州荻野山中《そうしゅうおぎのやまなか》の大久保の陣屋を焼いたのも、この連中だとはいわないが、この二人が、主謀者の中の有力なものとして、濃厚なる嫌疑をかけられても逃れる道はないでしょう。
 単にそれは、ここやかしこに限らず、この二人は、全国的に要害の城という城には特に興味を持っており、城を見ると、何かしら謀叛気《むほんぎ》を湧かさずにはおられないかの如く見える。そうして、現われたところの前二例によって見ても、この二人が睨《にら》んだ城のあとには、多少共に、風雲か、火水かが捲き起らないことのないのを以て例とします。
 だが、このところと荻野山中あたりと同日に見られてはたまらない。七百万石の力を以て築き成された六十万石の金鱗亀尾蓬左柳の尾張名古屋の城が、たかが二人の浪士づれに睨まれたとて、どうなるものか。その辺は深く心配するには足りないが、おりから早暁、あたりに人の通行の無きに乗じ、城を横目に睨み上げて、南条、五十嵐の両名が、高声私語する節々《ふしぶし》を聞いていると、金城湯池《きんじょうとうち》をくつがえすような気焔だけはすさまじい。
「家康が、特にこの名古屋の城に力を入れたのは、何か特別に家康流の深謀遠慮があってのことに相違ない」
「僕は、さほど深謀遠慮あっての取立てとは思わない、単に、清洲《きよす》の城の延長に過ぎないではなかろうかと思う」
「それだけじゃあるまい」
「附会すればいくらでも理窟はつくが、清洲なら清洲で済むのを、あそこは水利が悪い、大水の時には、木曾川が逆流して五条川が溢《あふ》れる、といったような不便から、最寄《もよ》りの地を物色して、ここへ鍬入《くわい》れをしただけの理由だろうと思う、ここでなければならんという要害の地とも思われないね」
「織田信長が生れたところが、この城の本丸か、西丸あたりにあたるというじゃないか。そうしてみると、やっぱり天然に、大将のおるべき地相か何かが存在していたものかも知れない」
「いずれ、名将や、名城が出現するくらいの土地だから、何ぞ佳気葱々《かきそうそう》といったようなものが、鬱勃《うつぼつ》していたのだろう」
「しかし、家康のことだから、ここを卜《ぼく》して新藩を置くからには、やっぱり相当の深謀遠慮というやつがあり、この城地の存在に、特別の使命が課せられていると見るのが至当だ。太閤の大坂城から奪って来た名宝という名宝は、たいてい江戸までは持って行かないで、この尾張名古屋の城に置き残してあるということだ。その辺から見ても、家康の心中には、何か期するところがあったに相違ない。一朝天下が乱れた時に、どんなふうにこの城が物を言うか、それはこうして、金の鯱を眺めていただけではわからない」
「もとより、家康の心事もわからないが、あの時に進んで主力となって、この城を築き上げた加藤肥後守の態度もわからないものだ。そこへ行くと福島正則の方が、率直で、透明で……短気ではあるが可愛ゆいところがあって、おれは好きだ」
「うむ、あれは清正が、毒饅頭《どくまんじゅう》を食いながらやった仕事だから、一概に論じてはいけない」
 南条は感慨無量の態《てい》。
 そこで暫く途切れた二人の会話の後ろには、名城取立て当時の歴史と、人物とが、無言のうちに往来する。
 慶長十五年六月二日より事始め。家康の命によって、その第九子義直のために、加賀の前田、筑前の黒田、豊前《ぶぜん》の細川、筑後の田中、肥前の
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