だ。
 祭主の黙祷《もくとう》についで恭《うやうや》しく声明読経《しょうみょうどきょう》に及ぶかと見ると、そうではなく、恥かしそうにバラ緒の下駄を突っかけて、竹藪《たけやぶ》の裏の方へ消えてしまいました。
 さては、この竹藪の裏に仕掛があるのだな。
 最初から、この竹藪が疑問です。竹藪の前に何物もなく、竹藪の中には何物がおわしますとも見えないのに、祭壇ばかりが恭しく飾られて、祭壇そのものにも、なんらの御本尊の象徴は見えていない。いくら道庵先生が、いたずら者だからといって、ことに自分が筍《たけのこ》の部類に属するからといって、縁もゆかりもない土地へ来て、竹藪祭りをするということも、悪ふざけが過ぎます。そうかといってここで見たところでは、竹藪の中には、種も、仕掛も、本尊様らしいものもないようです。
 さて、この辺で道庵先生は、例によって来会の民衆に対し、一場の演説を試むるだろうと期待していると、今日は案外におとなしく、また恭しく坐り直して、祭壇の直前に向い、黙祷をはじめてしまいました。
 そうこうしているところへ、以前の日蓮宗の坊さまが、また問題の竹藪の背後から、ゆらりゆらりと姿を現わしましたが、こんどは両の手に、すりこ木を入れた擂鉢《すりばち》を恭しく捧げて来たものです。
 さても洒落者揃《しゃれものぞろ》い――道庵が藪に向って供養をすれば、この坊さんも負けない気になって、これから味噌をすります――だが、この坊さんは、味噌をするにしては少し年をとり過ぎています。この年になって、味噌をすらねばならぬという悲惨の運命からは、多少とも超越してはいたようです。

         四

 擂粉木《すりこぎ》と擂鉢《すりばち》とを、件《くだん》の日蓮宗派に属するお寺の坊さんが恭しく捧げて、祭壇の前へ安置した時、端坐していた道庵先生が、おもむろにそれに一瞥《いちべつ》をくれて、
「すれましたかな」
「すれました」
 道庵先生は、ちょっと中指を、擂鉢の中へ差し入れてみました。
 汚ないことをする、味噌がすれたか、すれないか、それをここへ持ち出す坊さんも坊さんだが、それへ指先を突込んで、嘗《な》めてみようとする先生も先生です。
「ははあ」
 指先へつけたのを、篝火《かがりび》の火にかざして道庵が、ためつすがめつ眺めていますが、べつだん嘗めてみようとするのではないらしい。
「けっこうすれましたよ」
「よろしうござんすかね、塩梅《あんばい》は」
「まず、このくらいのところならよろしうござんしょう」
 道庵ほどになれば、嘗めてみないでも、眼で見ただけでも、味がわかるのかも知れません。
「にじむようなことは、ごわんすまいか」
「なあに大丈夫ですよ」
「分量は、このくらいあったら足りましょうでがんすかなあ」
「足りますとも、藤原の大足《おおた》りのたりたりで、余るくらいですよ」
「余りますか? そんならひとつ、先生、恐縮でがんすが、その余りでもって、唐紙《とうし》を一枚けえ[#「けえ」に傍点]ていただきてえもんでごわす」
「お安い御用だね、何なりとお望みなさい、こっちは、謙遜するほどの柄で無《ね》えんでげすからね」
と、道庵先生が答えました。
 どうも問答を聞いていると、さっぱり予想と要領が外《はず》れるのに困る。まず、すれましたかな、すれましたの挨拶は無事でしたが、次に、にじむようなことはごわすまいかが、少々オカしくなってくる。にじむ味噌と、にじまない味噌とあるのかしら。
 この辺は、味噌の名所だということだから、ところ変れば品変る方言も無いとはいえまいが、余ったら、それで唐紙を一枚けえ[#「けえ」に傍点]てもらいてえという言い分はどうしてもわからない。
 味噌と唐紙とは、ついてもつかない取合せです。それを易々《やすやす》と請合った道庵先生の返答もいよいよわからないが、なあに、それは最初から、問題のすりばちの中をよく見ておきさえすれば、何のことはなかったのです。
 坊さんは味噌をするべきもの、擂鉢《すりばち》の中には味噌があるべきものと、前提をきめておいてかかったから、こんな行違いが生じたので、坊さんといえども、必ず味噌をするべきものではない。それは多数の坊さんの中には、味噌をする坊さんもあるにはあるが、全体の坊さんが、必ず味噌をするべきわけのものではないという物の道理と、それから擂鉢の中には、味噌を入れる擂鉢もあることはむろんであるが、擂鉢の全体が必ず味噌を入れなければならぬと規定すべきものではない。
 そこの融通が、淡泊にわかっていさえすれば何でもなかったのです――この場合、擂鉢に入れられたのは、味噌ではなくて墨汁でありました。味噌をするべき擂鉢で、臨時に墨をすっただけのことであります。
 それで一部分の事件が判明してきました。この坊さんが自分ですったか、また人にすらせたか、それはわからないが、これだけの墨汁を、ここに提供したのは、祭主たる道庵先生に、この墨でもって何かを書かせようとする予備行為でありました。
 そうでなければ、あらかじめ祭主側からお寺へ頼んでおいて、この墨汁を作らせた予備行為であります。
 それはどちらでもかまいません。墨汁そのものが、誂向《あつらえむ》きに、この場へ出来て来さえすれば滞りはないことでありますが、次の問題は、しからばこの墨汁を、何に向って、何物を書こうの目的に供するかであります。
 余りでもって住職のために、唐紙へけえ[#「けえ」に傍点]てやることは先生の御承諾になっているところだが、余沢《よたく》でない、本目的に向っての擂鉢《すりばち》の墨汁は、果して何に使用するものか――
 時なる哉《かな》、宇治山田の米友が、二メートルの木の香新しい削り立ての木柱を軽々とかついで、この祭の座に姿を現わしたのは――

         五

 米友が距離に誤まられて、意外に時間をつぶしたことの申しわけをしているのを、道庵は空《くう》に聞き流し、それより道庵の揮毫《きごう》がはじまります。
 さいぜん、すり置かれた墨に、新たに筆を浸して、それをただいま、米友が運び来《きた》った二メートルの削り立ての木の香新しい木柱に向って、道庵先生が思案を凝《こ》らしました。
 事態が少しずつ、追々と分明になって参ります。竹藪《たけやぶ》の外にも、中にも、本尊が無いと心配した最初の杞憂《きゆう》もどこへやら、新たにこの木柱に向って、信仰の象徴が掲げられるわけですから、その現わす文字の如何《いかん》によって、今宵の祭典の理由縁起も分明になるわけですから、まあ暫く見ていて下さい。
 件《くだん》の木柱を、祭壇の前の程よきところへ寝かして、道庵はしきりに、文句の吟味と、字配りの寸法に、思案を凝らしているようでありましたが、並《な》みいる連中は、この老先生のお手のうちを拝見しようと息をこらして、固唾《かたず》を呑んでいるばかり。やがて道庵は墨痕あざやかに、すらすらと次の如く認《したた》めました。
[#ここから1字下げ]
「豊臣太閤誕生之処」
[#ここで字下げ終わり]
 この八文字が墨痕あざやかに認められたのを見ても、並みいる連中、うん[#「うん」に傍点]ともすん[#「すん」に傍点]とも言いません。存外やるな! と、その書風に感心の色を現わしたものもなく、また、待ってましたとばかり、ひやかし[#「ひやかし」に傍点]を打込むものもありません。
 さてはこの先生のことだから、何を書き出して人の度胆を抜くか、いやがらせをやるか、とビクビクしていた者もなく、極めて常識的に出来上ったのが物足らないくらいのものです。
 そうしてこんどは側面を返して、それに年月日を書きました。
 これもまた極めて無事であります。
 それから念入りに裏面を返して、そこにまず「施主」の二字を認めて暫《しばら》く休み、次にやや小形の字画で、
[#ここから1字下げ]
「江戸下谷長者町十八文道庵居士」
[#ここで字下げ終わり]
と書き飛ばしたが、誰も驚きませんでした。
 それと押並べて、
[#ここから1字下げ]
「鎌倉右大将宇治山田守護職米友公」
[#ここで字下げ終わり]
と書きましたけれども、一人として度胆を抜かれたものもなければ、ドッと悪落ちも湧いて起りません。
 天下に、切っても切れない不死身《ふじみ》、洒落《しゃれ》てもこすってもわからない朴念仁《ぼくねんじん》、くすぐっても笑わない唐変木《とうへんぼく》、これらのやからの始末に困るのは、西郷隆盛ばかりではないらしい。
 さすが道庵の悪辣《あくらつ》も、この善良なる、平和の里の紳士淑女に向っては、施す術《すべ》がないようです。ただただ悪辣も、奇巧も、無智と親切という偉大なる力に、ぐんぐん包容されてしまって、件《くだん》の木柱は、敬虔《けいけん》なる態度で、お世話人衆の手によって運ばれ、そうして最初からの問題であった竹藪《たけやぶ》の中に持ち込まれると、そこにもう、あらかじめ、ちゃんとその木柱の根が納まるだけの穴が待っておりました。
 それへ恭《うやうや》しく木柱が立てられると、そこで祭りの庭のすべての体《てい》が整うてきたと共に、今宵の祭典の意義も充分に明瞭になりました。
 すなわち道庵と米友とが、仮りに施主となって、日本第一の英雄、豊臣太閤の誕生地を記念せんがためのお祭でありました。お祭でなければ供養でありましょう。供養でなければ施餓鬼《せがき》かも知れない。
 してみればこの地点こそは、日本一の英雄を産んだところに相違ない。そうだとすれば、他所であるべきはずはない、日本国東海道はいつのおわばり[#「いつのおわばり」に傍点]の、尾張の国愛知の郡、中村――の里。
 木曾でお目にかかった道庵主従、いつか知らず、海道方面へ出て来て、今宵は、ここでこういう催しをすることに相成っている。
 道庵先生が、いかなる動機で、こういう催しをするようになったか、それをよく聞いてみれば、必ずや、なるほどと頷《うなず》かれるに足るべき先生一流の常識的の説明が有り余るに相違ないが、それを聞いていた日には、夜が明けるに相違ない――
 とにかく現実の場合、祭典の体《てい》も整い、意義も分明してきて、さて改めて本格の儀式に及ぼうとする時、疾風暴雨が礫《つぶて》を打つ如く、この厳粛の場面に殺到して来たのは、天なる哉《かな》、命なる哉です。

         六

 疾風暴雨というのは、いよいよ、これから祭典も本格に入ろうとする時に、この場へお手入れがあったことです。
 ここは、尾州名古屋藩の直轄地ですから、お手入れも、たぶんその直轄地からの出張と思われます。今日今宵、この異体の知れぬ風来者によって、一種不可思議なる祭典が、この地に催さるるということを密告する者あってか、或いは最初から、嫌疑をかけてここまで尾行して来たか、そのことは知らないが、かねて林間にあって状態をうかがっていたことは確かです。だが、お手先もまた、この祭典が何のための、何を主体としての祭典だか、一向わからなかったことは、前に述べたと同じことの理由です。
 しかしながら、今や、鮮かに木柱が押立てられてみると、証拠歴然です。
 だいそれたこの風来者は、人もあろうに豊太閤の供養をしようというのだ。
 親類でも、縁者でもあろうはずのない奴が、官憲の諒解《りょうかい》もなく、英雄の供養をしようというのは生意気だ、油断がならぬ、危険思想にきわまったり、者共|捕《と》ったという一言の下に、この場に疾風暴雨が殺到してしまった次第です。
 善良なる村の紳士淑女も、秀才も、涎《よだれ》くりも、木端微塵《こっぱみじん》でありました。周章狼狽《しゅうしょうろうばい》、右往左往に逃げ散ります、蜘蛛《くも》の子を散らすが如く。
 世話人たちは腰を抜かして、弁解の余裕がありません。日蓮宗のお寺に属する坊さんは、驚いて立ち上る途端に、せっかく丹念に擂鉢《すりばち》にすり貯めて、その余汁をもって、道庵先生の揮毫《きごう》を乞わんものをと用意していた墨汁のすりばちを踏み砕いてしまいました。そこで余汁をすっかり身に浴びて
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