兵馬は、こんな温泉に一日――もし許すならば十日でも二十日でも滞在して、思うさまこの巌の間の湯につかっていたいというほど、いい気持のした温泉でした。
案内した猟師は、そこから吹き出すのも、ここにたまっているのも、みんなお湯ですよ、まあ、もう少し進んでごらんなさい、天然の湯滝がありますから。湯滝は白骨にもありますが、あれよりズット大きい――といって、渓間を導いて、兵馬を二つの滝が女夫《めおと》のように並んでいるところへ連れて来ました。
「どうです、この二つの滝はみんなお湯でございますよ」
それは高さに於て四間、幅に於て三尺ほどの、絵に見たような自然の滝。近くよってさわってみると、全くの温泉です。
白骨にも湯の滝はあったけれど、あれは湯を引いて、人に打たせるように人工が加えてあったし、それと大きさから言っても、これとは比べものにならないのに、これは天然の滝そのものが全部の、自然の湯として現わされているのですから、兵馬は最初、滝の近く寄って、わざわざ腰を押しのべて触れてみようとしたが、ついに、たまり兼ねて行李《こうり》を捨て、帯刀を脱し、一切の旅装をかなぐり捨てて、その滝壺の湯に飛び込んでしまいました。
かくて、思う存分に、その湯にひたっていると、猟師は、そのあたりの板小屋に腰を卸《おろ》して網を張りにかかるらしい。
網を張るというのは、こうして待構えていると、猿やその他の動物が、湯につかりに来ることがある。それを見ていて、あるものは手捕りに、あるものは銃殺、あるいは槍殺もするらしい。稀れには弓矢も用いることがあるらしい。
ここで、思うさまの悠浴《ゆうよく》を試みた兵馬は、身心一層の爽快を覚え、網を張る猟師とは別れて、ひとり目的地へと急ぎます。
今は路傍に美しい高山植物のたぐいこそ咲いてはいないが、山林、谿流《けいりゅう》、すべてが清麗で、顧みれば、四周《まわり》の深山の中には、焼岳の噴煙がおどろ髪のように立ちのぼる。途中一つ信州松本への廻り道があっただけ、安房峠《あぼうとうげ》を越えてしまえば、平湯《ひらゆ》までは二里に足らぬ道。
前途の不安が全く除かれてみると、深山を楽しむの快感が身に沁《し》み渡り、いい知れぬ勇気が湧いて来る。
兵馬は、この快感と、勇気とをもって、安房峠を打越えながら、「万法一に帰す、一何れに帰す」ということを考えさせられました。これは兵馬にとっては、かなり重い公案のようなものですけれど、兵馬は往々、ふいにこんな公案にひっかかって、分相応の頭を練りながら、旅路を行くこともあるのです。
ほどなく兵馬は、平湯の温泉に着きました。
ここは白骨と違って、周囲の峡間も迫ってはいず、田野も相当に開けて、白骨のように宿屋一軒がすなわち峡間の一部落をなすというようなわけではなく、数十戸の人家が散在して、人里の気分豊かに猟犬の声も相和する、至極穏かで平らかなところだと感じました。
そこの「水石《すいせき》」という宿で草鞋《わらじ》をぬぐ。
浴客も相当にありました。
二三日は、とにかく、ここで落着いて、これから当然、この国の首都、高山の町をおとずれて、尾張方面へ行く、それに順路を取ろうとする。
自分の通された宿の座敷に、鎧櫃《よろいびつ》があって、具足《ぐそく》が飾りつけられてあることに、兵馬は、ちょっと好奇心を起し、まず長押《なげし》にかけられた薙刀《なぎなた》から取って、無断に御免を蒙《こうむ》って、鞘《さや》を外して見たけれども、錆《さ》びてはいるし、さのみ名作とも思われませんでした。
だが、素朴な湯槽《ゆぶね》のうちの二三の浴客とは、忽ち話敵《はなしがたき》となりました。それは高山あたりから来た、新婚らしい夫婦者、それから近在のお婆さんと、病気がありそうにもないに湯治だと言っている四十男、それと家の番頭、雇人、それらが、すべて隔てのない混浴でした。
兵馬が白骨から来たと聞いて、その四十男が、好事《こうず》な眼を向けて、
「白骨じゃ、このごろ、お化けが出るって評判ですが、本当でござんすかね」
と言いました。
「お化け、そんな話は聞かなかったよ――」
兵馬が答えると、
「こちらでは、もっぱら、そんな評判でございましたよ」
「ははあ、冬籠《ふゆごも》りの人も二三いるにはいましたけれど、お化けのことは誰も言いませんでした」
人からお化けと問いかけられて、はじめて兵馬は、なんだか白骨の思い出に、寒さを感じたようなものです。
その事。兵馬自身こそお化けにはつけつ廻されつしているではないか、仏頂寺、丸山の亡者はいわずもあれ。
そのほかに、何が白骨にいたか。何にもいないから手を空《むな》しうして、こうしてやって来たのだが、さていたかと言われてみると、考え直してみたくなる。
ここ、平湯で、平々淡々として、明るい気分の湯に浸っているのとは、周囲も、気分も、全然違い、ここへ来て見るとはじめて、たしかに白骨には何かいたという気分がしてならない。あの短笛の音も変じゃないか。あの娘――あの冬籠りの人々――二階から三階にわたる陰気なる夜の音。
上から射す初冬の光線は極めて明るかったが、その明るさも、いま考えてみると杲々《こうこう》とかがやき渡る太陽の光の明るさではなかったようだ。白骨の月夜は名物ときいたが、月の光が昼間まで照り残っているということはあるまい。
さりとて、鐙小屋《あぶみごや》の神主殿の面《かお》が、白日の下に、明る過ぎるほど明るかったと思うのも、ものの不思議。
やはりお化けが出なかったかと言われて、はじめて兵馬は物《もの》の怪《け》に襲われた心持で、
「ははあ、白骨にはお化けが出るなんて、そんな噂《うわさ》があるのですかね」
「ありますとも、もし……出なけりゃ不思議なもんだと、こっちではみんな、そういっておぞけをふるっておりますよ」
これは湯槽の中の輿論《よろん》のようで、この地では誰ひとりとして、白骨にお化けが出るということを信じないものはないようです。
「そうでしたかね、我々はあそこにいても、一向お化けというものを聞きもしなかったし、無論、見もしなかったが、いったい、そのお化けというのは、どんなお化けですか」
「いくつも出るそうですが、そのなかで、高山の淫乱後家《いんらんごけ》と、男妾《おとこめかけ》の浅公……」
と四十男が浅黒い面《かお》に、思いのほか白い歯並を見せてニヤリと笑いました。
「ははあ、高山の後家さんと、なにがしの若者、それが化けて出るというのですか」
「そりゃ見た人があるから、たしかなもんですが、そのほか、いろいろな化け物が、この冬は白骨に巣をくっているってますから、こちらからは誰も参りません。尤《もっと》も、ふだんでさえ冬は人の住まない土地ですから、行かないのはあたりまえですけれど、今度のお化け話はこの夏の終り頃からはじまりました」
「そうですか、拙者は、ちょっと道に踏み迷うたという形で、あの温泉場へ参り、直《ただ》ちにこうして引上げて来たのですから、お化けにお目にかかる暇《ひま》が無かったものと思われます、もう少し逗留《とうりゅう》していたら、そのお化けが挨拶に来たかも知れません」
兵馬が存外、あきたらず受け流すのを、一同がかえって興にのり、
「左様でございますとも、長く御逗留なすっていると、そのお化けにひきこまれなすったかも知れませんが、早く引上げておいでなすったから、お化けも御挨拶を申し上げる暇がございませんで結構でした、後家さんや、浅公なんぞも、早く切上げて来れば何の事はなかったのに……」
それから、一槽の者が、その飛騨《ひだ》の高山の淫乱後家なるものと、男妾の浅公なるものとについての噂を、蒸返し、蒸返し、それにまたまた尾ヒレがついて、この湯槽の中は、その風聞で持ちきりになりましたから、兵馬も思わず興味をもって、これに耳を傾けさせられています。
聞いていると事実はこうです、飛騨の高山の穀屋《こくや》という金持の後家さんが、箸にも棒にもかからない淫婦で、めぼしい男を片っぱしから引っかける、それがこの夏中から、男妾の浅公というのを引きつれて、白骨の温泉で、うだり通しでいたこと、こっちから行ったものも大分当てられて来たが、淫乱後家の白骨に於ける威勢の程は圧倒的で、女王の形になり、御当人も面白くって、はしゃぎ通し、思う存分の享楽をして、帰ることを忘れてしまったらしく、この冬を通して白骨に籠《こも》ると言い出して、迎えの者をてこずらせたということ。
そのうち、男妾の浅公が首をくくって死んでしまうと、まもなく、後家さんが無名沼《ななしぬま》に落ちて溺れ死んだ、つまり魂《こん》に引かれたのだ。
少なくとも、この二つの幽霊は、白骨の温泉の宙宇《ちゅうう》にさまようて浮べないでいる。
それから話がハズんで、あの淫乱後家の淫乱が、男妾の浅公にとどまらないということ――相手嫌わずだったが、突っぱなすのも上手で、存外ボロを出さなかったが、噂にのぼったところでも、あれとこれと、これとあれ――兵馬には聞くに堪えないほどの事情を、右の四十男がズバズバと、すっぱぬいて聞かせました。
とても大胆な、すっぱぬき方であったけれど、槽中の若夫婦までが、あんまり恥かしい顔をせずに聞かされていたことほど、淫乱後家の淫乱ぶりは猛烈で、それが、その後家さんにとっては常識でもあるかのように受取られるほど、徹底していたようです。
兵馬も、その話を聞いて呆《あき》れました。女というものは、それまで大胆になり得るものか、男というものは、それまで無抵抗であり得るものか、歯痒《はがゆ》い――とも思ったり、そこまで赤裸になれば人間も憎めないではないか、とさえ考えさせられました。
そうして、聞きようによれば、ここにその淫乱後家の情事をズバズバとすっぱぬいているこの四十男も、どうやら、口を拭いた覚えがあるような、それを、得意がってのろけているようにも聞える。合浴の中婆さんまでが、いい気になって、お前さん、なかなか人が悪い――と四十男の肩をつついてニヤリとする。
「あなた様なんぞもお若いに……穀屋の後家さんがいなさらん時分においでだからいいもんの、夏うちなら食われてしまいましたぜ、なんしろ十五から六十まで、油っ気のある男なら、イヤと言わないで、一日に二人ぐらいは食べたおばけですもんな」
それでいて、何の因果か、浅公だけは離れられずに通したのは、後家さんが浅公に何か弱点を握られているせいだともいうし、浅公の方で、後家さんの油っこいのに離れられないのだともいうし、後家さんは浅公を、振って振って振り通しながら、それでも番頭代りに打捨《うっちゃ》れないで、おもちゃにしていたが、その浅公を前に置いて、思うさまふざけた真似をして見せたが、浅公泣きながら、その圧制に甘んじていたこと――そこで四十男はいい気になって、もう少し調子を進め、浅公に対しての淫乱後家の虐待ぶりのいかに徹底的であったかをも、手に取るように解剖をはじめたものだから、これには、さすがの聞き手も、面《かお》をそむけながら苦笑いをする。兵馬は、ついに浴場を出てしまいました。
浅ましい人間の情慾。
二十一
宇津木兵馬は、その夜は、枕許の四角な行燈《あんどん》のぼんやりした火影《ほかげ》を見つめながら、夢路に入りました。
夜更けて、行燈の火影に人のあるのを見て、驚きました。
よく見定めるつもりでいると、その人は行燈を蔭にして、あちら向きに坐り、針を運んでいるもののようです。
誰だろう、人の枕許へ来て、夜中に落ちつき払って物を縫うているのは――
その時、兵馬は、その女が肩先から真赤に血を浴びているのを認めました。
ははあ、白骨へ出るというお化けがここへ来たな、白骨へ出るはずのが、戸惑いしてここへ現われたのだな、そうでなければ、さいぜんの噂が暗示となって夢に現われたか。
夢を見る人に、夢と覚って、現実と差別しながら、それを見ていられるはずはない。
醒《さ》めての後こそ、兵馬はこのごろ、よく夢を見る、夢を見過
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