郷の方へ連れ戻されているかも知れません、時々、あちらからあの子の声が聞えます。弁信さん――いま富士山の頭から面《かお》を出したのはお前だろう、なんて――あの子が海岸を馳《は》せめぐって、夕雲の棚曳《たなび》く空の間に、私の面を見出して、飛びついたりなぞしている光景が、私の頭の中へ、絶えずひらめいて参ります。ですから、私はあの子に逢いたければ、甲州から、いっそ相模へ出て、一息に船で渡らせてもらいさえすればよかったのです、必ずあの子に逢えたのです。それにもかかわらず、私は全くそれと別な方向を取って、信濃路へ分け入りました。信濃路も、この奥深い、日本の国の天井といわれるところまで分け入って参りました。道程は決して、滑らかなものとのみは申すことはできませんのでございます。ところもところでございましょう、時も時でございましょう、旅に慣れた身の上、むしろ旅を生涯とする私の身とは覚っておりますけれども、やはり雪の降る日には寒いと感じますことは、皆様も、西行法師も、私も、変ることはございません――里でたずねられました時、白骨まで参ります、と答えましたところが、里の人がわたくしを拝みました。それでは、も
前へ
次へ
全514ページ中81ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング