れた蛇の目、それが比翼に散らしてあるのが、見渡す限りずっとこの一間を立てきっている。それを朱塗の丸行燈《まるあんどん》が及ぶ限り映して、映し足りないという色を見せているものですから、さながら古城内の評定の間を思わせるような、広さと、わびしさを漂わせている中で、経机の上に置かれた短冊と、筆とが証明するように、この夫人は、歌を思うているものらしい。
 五条川の水の音も静かだし、古城址に啼《な》く梟《ふくろう》の音も遠音に聞えて来るし、木立《こだち》の多い広い屋敷の中の奥まったこの建物の中の夜は、いかさま歌を思うのにふさわしいものらしい。
 右の桔梗と、蛇の目の紋散らしの襖の外で、その時軽く咳《せき》が起る。
 絵のような時代のついたこの御殿の一間に、ただひとり、歌を思うているとばかり思うていると、今の軽い咳。軽いというよりは、病人を暗示するような咳によって見ると、次の座敷に人がいる。
 二三度、軽く咳入って、それから静かな寝返り。どうしても病める者の気配《けはい》としか思えない。
 それだけで、また、ひっそりと元に返ったけれども、歌を思うには、少しさわりになったと見えて、
「伊津丸《いつま
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