れた墨に、新たに筆を浸して、それをただいま、米友が運び来《きた》った二メートルの削り立ての木の香新しい木柱に向って、道庵先生が思案を凝《こ》らしました。
 事態が少しずつ、追々と分明になって参ります。竹藪《たけやぶ》の外にも、中にも、本尊が無いと心配した最初の杞憂《きゆう》もどこへやら、新たにこの木柱に向って、信仰の象徴が掲げられるわけですから、その現わす文字の如何《いかん》によって、今宵の祭典の理由縁起も分明になるわけですから、まあ暫く見ていて下さい。
 件《くだん》の木柱を、祭壇の前の程よきところへ寝かして、道庵はしきりに、文句の吟味と、字配りの寸法に、思案を凝らしているようでありましたが、並《な》みいる連中は、この老先生のお手のうちを拝見しようと息をこらして、固唾《かたず》を呑んでいるばかり。やがて道庵は墨痕あざやかに、すらすらと次の如く認《したた》めました。
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「豊臣太閤誕生之処」
[#ここで字下げ終わり]
 この八文字が墨痕あざやかに認められたのを見ても、並みいる連中、うん[#「うん」に傍点]ともすん[#「すん」に傍点]とも言いません。存外やるな! と、
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