ったか、また人にすらせたか、それはわからないが、これだけの墨汁を、ここに提供したのは、祭主たる道庵先生に、この墨でもって何かを書かせようとする予備行為でありました。
 そうでなければ、あらかじめ祭主側からお寺へ頼んでおいて、この墨汁を作らせた予備行為であります。
 それはどちらでもかまいません。墨汁そのものが、誂向《あつらえむ》きに、この場へ出来て来さえすれば滞りはないことでありますが、次の問題は、しからばこの墨汁を、何に向って、何物を書こうの目的に供するかであります。
 余りでもって住職のために、唐紙へけえ[#「けえ」に傍点]てやることは先生の御承諾になっているところだが、余沢《よたく》でない、本目的に向っての擂鉢《すりばち》の墨汁は、果して何に使用するものか――
 時なる哉《かな》、宇治山田の米友が、二メートルの木の香新しい削り立ての木柱を軽々とかついで、この祭の座に姿を現わしたのは――

         五

 米友が距離に誤まられて、意外に時間をつぶしたことの申しわけをしているのを、道庵は空《くう》に聞き流し、それより道庵の揮毫《きごう》がはじまります。
 さいぜん、すり置か
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