野心を起さないものが無いとは誰も断言できないでしょう。ところが今日まで、今後もそうでしょうが、お雪ちゃんを渇仰《かつごう》するものはあるけれども、ついぞ手出しをしようとした奴が無い、そこにお雪ちゃんの潔白と、純粋から来るつよみがあるのです」
「ちっとも存じませんでした、わたしにそんな強味があることを」
「ちっとも存じないところが強味なんですよ、これを存じていてごらんなさい、ツンと取りすましてみたところで、隙《すき》はありますよ……とにかく我々も、ずいぶん世間を渡っている人間ではありますが、それでも、お雪ちゃんのような女性を見ることは、そんなに多くはありません。宝玉というものは、やっぱり深山へ来なけりゃ掘り出せないのかも知れません」
「北原さんも、ずいぶん、お世辞がお上手なんですね」
「ええ、これでも、女では相当に苦労をした覚えがあるんですから、相当に女を見る目もあるにはあるべきでしょう。ところで、お雪ちゃん、あなたの珍重すべき所以《ゆえん》を信じますと共に、その危険についても看取しないわけにはいきません、賞《ほ》めているばかりが親切じゃありませんからね――あなたのお年頃、そうして、自己の有する美質を、人に示して惜しまないところには、また非常なる危険がひそんでいることをさとらなければなりません、そこをひとつ、出過ぎた申し分ですが、わたしから忠告をさせていただきたいものです」
「どうぞ、御遠慮なくおっしゃって下さい、何と言われても、為めになることをおっしゃっていただく分には、決しておこりませんから」
「では申し上げましょうかね。人様のことを申し上げるには、自分の懺悔《ざんげ》からはじめなければなりません。まあ、お茶を一つ……」
 話が思いの外はずんで、賢次がお茶をいれて話しこむ気になると、お雪も身を入れて聞く気になりました。
 今や賢次が、わが身の懺悔話からはじめて、おもむろにお雪ちゃんの為めになる意見話の緒《いとぐち》を切ろうとした途端に、この家のいずれの一角からか、飄々《ひょうひょう》として短笛の音が落ちて来ました。
「あ、尺八」

         十五

「あ、尺八ですね」
 せっかく、語り出でようとする賢次、せっかく、それに聞き入ろうとしたお雪、二人の熟した気分を、この尺八が折りました。
 北原も、話頭を折って、この尺八の音に聞き入る。お雪もまた、それを聞くと何となしに、そわそわとなって落ちつき兼ねた模様も見えます。
 じっと暫《しばら》く耳をすましていた北原、
「お雪ちゃん、あれはどなたですか」
「あれですか……」
「あの尺八を吹いているのは、どなたですか、あなた御存じでしょう」
「ええ」
「どなたですか」
「あれはね……」
「我々の間では……最初は、我々仲間の者がやるのだろうと気にもとめておりませんでしたが、中頃から、不思議がるようになりました。君かい、いやおれではない、では誰だ、と論議の末が、ついにわからなくなったと共に、あの笛の音も暫くばったりとやんだものです。それがまた、深夜でも、白昼でも、意外な時に、意外に起るものですから、それから問題になりました。いろいろ物色してみたが、結局、お雪ちゃんの連れの方、そのほかにはあの笛の主が無いということになってみると、ますます問題が問題を生みましたのですよ」
「どうも済みません……」
「いや、済まないということではないですよ、つまりね、我々こうして、計らずも山中に棟を同じうして住んでいますとね、呉越同舟《ごえつどうしゅう》といったようなものでしょう、ましておたがいに、今日まで見ず知らずでこそあれ、敵同士《かたきどうし》じゃないんですからね。無論、呉越どころじゃありません、同海同胞です、みんなこうして一つ棟の下に、一つ湯槽《ゆぶね》の中で、裸にもなり合う仲になっているのですから、兄弟同様の親しみが湧いて来るのも無理がありません。ところで、たった一人が、この不思議な因縁《いんねん》の同舟の中に、我々と全く没交渉なお方が一人、存在なさるということは物足りないではありませんか。時々は噂《うわさ》をしますが、まだ一人として、我々のうちでお目にかかったものはないのです、それがすなわち、あなたのお連れの御病人の方なんです――しかし、御大病でいらっしゃるから遠慮しておいた方がいいと、誰も、そのことを、あなたの前では申し上げなかったでしょう、ところがその御大病の方が、このごろは短笛――尺八ですな、あれをおやりになろうということですから、御病気も大分、およろしくなったのでしょう……と拙者はじめ思いました」
「ほんとうにおかげさまで、近頃は、めっきりよくなったようでございます」
「それでは、やはり、あの尺八は、あなたのお連れの御病人の方がお吹きになるのですね」
「そう、お尋ねを受ければ、左様でご
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