大菩薩峠
年魚市の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)年魚市《あいち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)水勢|甚《はなは》だ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「くさかんむり/毛」、第4水準2−86−4]
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年魚市《あいち》は今の「愛知」の古名なり、本篇は頼朝、信長、秀吉を起せし尾張国より筆を起せしを以てこの名あり。
[#ここで字下げ終わり]

         一

 今日の黄昏《たそがれ》、宇治山田の米友が、一本の木柱《ぼくちゅう》をかついで田疇《でんちゅう》の間をうろついているのを見た人がある。
 その木柱は長さ約二メートル、幅は僅かに五インチに過ぎまいと思われます。
 これを甲州有野村の藤原家の供養追善のために、慢心和尚がかつぎ出した木柱に比べると、大きさに於て比較にならないし、重量に於ても問題にならないものであります。
 本来、米友の気性《きしょう》からいえば、道理と実力が許す限り、他人が七十二貫のものをかつげば、自分もそれをやれないとは言わない男ですが、単に、たれそれが材木をかついだから、お前も材木をかつがねばならぬという、無意味な競争心と、愚劣な模倣のために、焦躁《しょうそう》する男ではありません。
 第一、慢心和尚が、いつなんらの目的で、どれほどの木柱をかつぎだしたか、そんなことを旅中の米友が知っているはずがなし、それに地形そのものが、また大いに趣《おもむき》を異にして、あちらは、四方山に囲まれた甲府盆地の一角であるのに、これは、田野《でんや》遠く開けて、水勢|甚《はなは》だ豊かに、どちらを向いても、さっぱり山というものは見えないようです。
 それは黄昏のことで、多少のもや[#「もや」に傍点]がかかっているとはいえ、どの方面からも、山気《さんき》というものの迫り来る憂いは更にないから、どう考えても、ここ十里四方には、山らしい山というものは無いと思わねばなりません。
 その代り、水の潤沢《じゅんたく》であることは疑いがないらしい。そうかといって、常陸《ひたち》の霞ヶ浦附近や、出雲の宍道湖畔《しんじこはん》のように、水郷といった趣ではないが、大河が四境を圧して、海と持合いに、この平野がのびているという感じは豊かである。
 見渡す限りは、その大河の余流を受けた水田で、水田の間に村があり、森があり、林があり、道路があって、とりとめのない幅の広い感じを与えないでもない。
 米友が件《くだん》の田疇《でんちゅう》の間を、木柱をかつぎながら、うろついて行くと、楊柳の多いところへ来て、道がハッタと途切れて水になる。
 大抵の場合は、それを苦もなく飛び越えて、向う岸に移るが、これは足場が悪い。距離に於ては、躍《おど》って越えるに難無きところでも、辷《すべ》りがけんのんだと思う時は、彼は気を練らして充分な後もどりをする。
 葭《よし》と、蘆《あし》とが行手を遮《さえぎ》る。ちっと方角に迷うた時は、蘆荻《ろてき》の透間《すきま》をさがして、爪立って、そこから前路を見る。出発点は知らないが、到着点の目じるしは、田疇の中の一むらの森の、その森の中でも、群を抜いて高い銀杏《ぎんなん》の樹であるらしい。
 こんなふうに、慣れない田圃道《たんぼみち》を、忍耐と、目測と、迂廻《うかい》とを以て進むものですから、見たところでは、眼と鼻の距離しかないあの森の、銀杏の目じるしまで至りつくには、予想外の時間を費しているものらしい。
 そこでいくら気を練らしても、持って生れた短気の生れつきは、如何《いかん》ともし難いものと見える。
 いったい、正直者はたいてい短気です。短気の者がすべて正直といえるかどうかは知らないが、宇治山田の米友に限って、正直であるが故《ゆえ》に短気だという論理は、彼を知れる限りの者が認めるに相違ない。正直者は、この世に於て、距離と歩数とは常に比例するものだと考えている。距離と歩数とが最も人を欺《あざむ》き易《やす》いのは、山岳と平野とがことに烈しいことを知らない。山岳の遭難者が、ホンの目に見えるところで失敗するように、見通しの利《き》く平野の道に、大きな陥没と曲折があることを、熟練な旅行者は知っている。
 そこで、この世の苦労に徹骨した大人は教えていう、九十里に半ばすと。
 わが宇治山田の米友も、このごろでは、かなり人情の紆余曲折《うよきょくせつ》にも慣れているから、距離と、歩数と、時間との翻弄《ほんろう》にも、かなりの忍耐を以て、ようやくめざすところの森蔭に来た時分には、黄昏《たそがれ》の色が予想よりは一層濃くなっていたことも是非
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