がありません。
その森は、かなりの面積を持った、だだっ広い森で、中に真黒いのは黒松である。
柳もあり、梅もあり、銀杏の樹も多い。柿の木なんども少なくないから、森といえば森だが、屋敷といえば屋敷とも見られる。庭園と見れば庭園である。かくてようやく目的地に至りついた米友は、森の闇の中へ二メートルの木柱をかついだなりで、無二無三に進み入りました。
二
この森は、物すごい森ではない。とりとめもなく広い水田の間へ、幾|刷毛《はけ》かの毛を生やしたような森ですから、中に山神《さんじん》の祠《ほこら》があって、そこに人身御供《ひとみごくう》の女がうめき苦しんで、岩見重太郎の出動を待っているというような意味の森ではありません。
面積に於て広いには広いが、やっぱり屋敷跡、あるいは庭園、もしくは公園の一部といったような気分の中の森を、米友は二メートルの木柱をかついで無二無三に進んで行くと、やがてかなりの明るさがパッと行手の森の中に現われて、そこでガヤガヤと人の笑い声、話し声が手に取るように聞え出しました。
その笑い声、話し声も、うつろの前で、今昔物語の老人が聞いたようなフェアリスチックな笑い声、話し声ではなく、充分の人間味を含んだ笑い声、話し声ですから、すべての光景が行くに従って、森の荒唐味と、幻怪味とを消してしまいます。
「ワハ、ハ、ハ、ハ、ハ、そう来られちゃ、どうもたまらねえ」
充分人間味を帯びた笑い声、話し声の中で、ひときわ人間味を帯び過ぎた、まやかし声が起ったことによって、幻怪味と、荒唐味は、根柢から覆《くつがえ》されてしまいました。
今の、その声を聞いてごらんなさい。知っている人は知っている、知らない人は知らない、これぞ十八文の名声天下に轟《とどろ》く(?)道庵先生の謦咳《けいがい》の破裂であることは間違いがありません。
「ナアーンだ、道庵先生、先生、こんなところに来ていやがらあ」
長者町の子供が、くしゃみをして呆《あき》れ返っているに相違ない。
見れば、その、だだっ広い森の中、森というよりは屋敷跡とか、庭園とかいう感じを与える森の中の、とある広場を選定して、そこに数十枚の蓆《むしろ》が敷きつめられてあり、その周囲《まわり》に、煌々《こうこう》として幾多の篝火《かがりび》が焚き立てられている。
その蓆の上へ、嬉々として、お客様気取りに坐り込んでいるのは、この界隈《かいわい》のお河童や、がっそう[#「がっそう」に傍点]や、総角《あげまき》や、かぶろや、涎《よだれ》くりであって、少々遠慮をして、蓆の周囲に立ちながら相好《そうごう》をくずしているのは皆、それらの秀才と淑女の父兄保護者連なのであります。
さて席の正面を見ると、そこに臨時の祭壇が設けられてある。その祭壇に使用された祭具を見ると、八脚の新しい斎机《さいき》もあり、経机の塗りの剥《は》げたのもあり、御幣立《ごへいたて》が備えられてあるかと見れば、香炉がくすぶっている。田物《たなつもの》、畑物《はたつもの》を供えた器《うつわ》も、神仏混淆《しんぶつこんこう》のチグハグなもので、あたり近所から、借り集めて人寄せに間に合わせるという気分が、豊かに漂うのであります。
それよりも大切なことは、祭壇があれば、祭主がなければならないことですが、御安心なさい、烏帽子《えぼし》直垂《ひたたれ》でいちいの笏《しゃく》を手に取り持った祭主殿が、最初から、あちら向きにひとり坐って神妙に控えてござる――さてまた祭主と祭壇の周囲には当然、それに介添《かいぞえ》、その世話人といったようなものもなければならぬ。それも心配するがものはない。
村方の古老、新老が都合五名、いずれも平和なほほえみを漂わして、祭主の周囲に、くすぐったそうに坐ってござる。のみならず、形ばかりの袈裟衣《けさごろも》をつけた坊さんが一枚、特志を以てその介添に加わって、何かと世話をやいてござる。
さて、烏帽子直垂の祭主のみは、恭《うやうや》しく笏を構えて、祭壇に向って黙祷を凝《こ》らしているが、祭壇の彼方《かなた》には、神も、仏も、その祠《ほこら》も、社もおわしまさない。ただ一むら、真竹《まだけ》の竹藪《たけやぶ》があるばかりだ。
何のことはない、祭主はこの竹藪に向って、供物《くもつ》を捧げ、黙祷を捧げているようなものです。
列席の秀才や、淑女は、鼻汁をすすりながら、神妙に席をくずさず構えているのは、多分、この祭礼と供養が済みさえすれば、あの捧げものの田《たな》つ物と、畑《はた》つ物と、かぐの木の実とは、公平に分配してもらえるか、或いは自由競争で取るに任せるか、その未来の希望を胸に描いて、それを楽しみにおとなしくしているものらしい。
ところで、道庵先生は、どうした。さいぜんあれほど人間味を発揮
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