した序破急《じょはきゅう》、あれが道庵先生の声でなくて何である。
ところがこの一座のどこにも、その先生の姿が見えない――
三
さいぜん、米友がこの森の、臨時祭壇に近いところまで来た時分に、この陽気な笑い声、話し声の中から、ひときわ人間味を帯びたわれがねで、「ワ、ハ、ハ、ハ、そう来られちゃ、どうもたまらねえ」とわめかれた声は、聞きあやまるべくもなき道庵先生の声であるのに、その声が、たしかにこの席から突破されて来たものであるのにかかわらず、現場を見れば、その人の影も、形も見えないから、全く狐につままれたようなものです。
だが、この一席の紳士も淑女も、秀才も頑童《がんどう》も、そんなことを少しも気にかけてはいない。いずれも平和なほほえみをもって、恭しく祭壇に向って黙祷を捧げているところの、烏帽子《えぼし》直垂《ひたたれ》の祭主の方のみを気にしていると、この祭主殿が、やがて思いがけなくも、すっくと立ち上りました。立ち上るといきなり、なり[#「なり」に傍点]にもふり[#「ふり」に傍点]にもかまわずに、大きなあくびをしてみたが、そのあくびを半分で切り上げて、言葉せわしく、
「まだ、来ねえかよ、あの野郎は、友様は、鎌倉の右大将はまだ来ねえかね」
と言いました。そこで、はじめて正体が、すっかり曝露《ばくろ》してしまいました。
この烏帽子《えぼし》直垂《ひたたれ》の祭主殿がすなわち、さいぜんから声のみを聞かせて姿を見せず、心ある人に気をもませたこれが道庵先生でありました。
烏帽子直垂の道庵先生は、こうして立ち上り、向き直って笏《しゃく》を以て群集をさしまねきながら、
「友様は、まだ来ねえかね」
と宣《のたま》わせられました。しかし善良なるこの村の紳士淑女と、秀才と、令嬢とを以て満たされたこの一席は、祭主の調子のざっかけなのと、風采《ふうさい》、挙動の悪ふざけに過ぎたようなのに、嘲笑をこめた喝采を送るような無礼な振舞はあえてしませんでした。
「迎えに行って来て上げましょうか」
かえって、極めて質朴《しつぼく》にして、好意に満ちた親切を表わしてくれました。
「それには及びませんよ、ありゃ、正直な人間ですからね」
と道庵先生が言いました。
その時に袈裟衣《けさごろも》の老僧が、やおら立ち上って――その袈裟衣を見ると、これはたしかに日蓮宗に属する寺の坊さんだ。
祭主の黙祷《もくとう》についで恭《うやうや》しく声明読経《しょうみょうどきょう》に及ぶかと見ると、そうではなく、恥かしそうにバラ緒の下駄を突っかけて、竹藪《たけやぶ》の裏の方へ消えてしまいました。
さては、この竹藪の裏に仕掛があるのだな。
最初から、この竹藪が疑問です。竹藪の前に何物もなく、竹藪の中には何物がおわしますとも見えないのに、祭壇ばかりが恭しく飾られて、祭壇そのものにも、なんらの御本尊の象徴は見えていない。いくら道庵先生が、いたずら者だからといって、ことに自分が筍《たけのこ》の部類に属するからといって、縁もゆかりもない土地へ来て、竹藪祭りをするということも、悪ふざけが過ぎます。そうかといってここで見たところでは、竹藪の中には、種も、仕掛も、本尊様らしいものもないようです。
さて、この辺で道庵先生は、例によって来会の民衆に対し、一場の演説を試むるだろうと期待していると、今日は案外におとなしく、また恭しく坐り直して、祭壇の直前に向い、黙祷をはじめてしまいました。
そうこうしているところへ、以前の日蓮宗の坊さまが、また問題の竹藪の背後から、ゆらりゆらりと姿を現わしましたが、こんどは両の手に、すりこ木を入れた擂鉢《すりばち》を恭しく捧げて来たものです。
さても洒落者揃《しゃれものぞろ》い――道庵が藪に向って供養をすれば、この坊さんも負けない気になって、これから味噌をすります――だが、この坊さんは、味噌をするにしては少し年をとり過ぎています。この年になって、味噌をすらねばならぬという悲惨の運命からは、多少とも超越してはいたようです。
四
擂粉木《すりこぎ》と擂鉢《すりばち》とを、件《くだん》の日蓮宗派に属するお寺の坊さんが恭しく捧げて、祭壇の前へ安置した時、端坐していた道庵先生が、おもむろにそれに一瞥《いちべつ》をくれて、
「すれましたかな」
「すれました」
道庵先生は、ちょっと中指を、擂鉢の中へ差し入れてみました。
汚ないことをする、味噌がすれたか、すれないか、それをここへ持ち出す坊さんも坊さんだが、それへ指先を突込んで、嘗《な》めてみようとする先生も先生です。
「ははあ」
指先へつけたのを、篝火《かがりび》の火にかざして道庵が、ためつすがめつ眺めていますが、べつだん嘗めてみようとするのではないらしい。
「けっこうす
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