れましたよ」
「よろしうござんすかね、塩梅《あんばい》は」
「まず、このくらいのところならよろしうござんしょう」
道庵ほどになれば、嘗めてみないでも、眼で見ただけでも、味がわかるのかも知れません。
「にじむようなことは、ごわんすまいか」
「なあに大丈夫ですよ」
「分量は、このくらいあったら足りましょうでがんすかなあ」
「足りますとも、藤原の大足《おおた》りのたりたりで、余るくらいですよ」
「余りますか? そんならひとつ、先生、恐縮でがんすが、その余りでもって、唐紙《とうし》を一枚けえ[#「けえ」に傍点]ていただきてえもんでごわす」
「お安い御用だね、何なりとお望みなさい、こっちは、謙遜するほどの柄で無《ね》えんでげすからね」
と、道庵先生が答えました。
どうも問答を聞いていると、さっぱり予想と要領が外《はず》れるのに困る。まず、すれましたかな、すれましたの挨拶は無事でしたが、次に、にじむようなことはごわすまいかが、少々オカしくなってくる。にじむ味噌と、にじまない味噌とあるのかしら。
この辺は、味噌の名所だということだから、ところ変れば品変る方言も無いとはいえまいが、余ったら、それで唐紙を一枚けえ[#「けえ」に傍点]てもらいてえという言い分はどうしてもわからない。
味噌と唐紙とは、ついてもつかない取合せです。それを易々《やすやす》と請合った道庵先生の返答もいよいよわからないが、なあに、それは最初から、問題のすりばちの中をよく見ておきさえすれば、何のことはなかったのです。
坊さんは味噌をするべきもの、擂鉢《すりばち》の中には味噌があるべきものと、前提をきめておいてかかったから、こんな行違いが生じたので、坊さんといえども、必ず味噌をするべきものではない。それは多数の坊さんの中には、味噌をする坊さんもあるにはあるが、全体の坊さんが、必ず味噌をするべきわけのものではないという物の道理と、それから擂鉢の中には、味噌を入れる擂鉢もあることはむろんであるが、擂鉢の全体が必ず味噌を入れなければならぬと規定すべきものではない。
そこの融通が、淡泊にわかっていさえすれば何でもなかったのです――この場合、擂鉢に入れられたのは、味噌ではなくて墨汁でありました。味噌をするべき擂鉢で、臨時に墨をすっただけのことであります。
それで一部分の事件が判明してきました。この坊さんが自分ですったか、また人にすらせたか、それはわからないが、これだけの墨汁を、ここに提供したのは、祭主たる道庵先生に、この墨でもって何かを書かせようとする予備行為でありました。
そうでなければ、あらかじめ祭主側からお寺へ頼んでおいて、この墨汁を作らせた予備行為であります。
それはどちらでもかまいません。墨汁そのものが、誂向《あつらえむ》きに、この場へ出来て来さえすれば滞りはないことでありますが、次の問題は、しからばこの墨汁を、何に向って、何物を書こうの目的に供するかであります。
余りでもって住職のために、唐紙へけえ[#「けえ」に傍点]てやることは先生の御承諾になっているところだが、余沢《よたく》でない、本目的に向っての擂鉢《すりばち》の墨汁は、果して何に使用するものか――
時なる哉《かな》、宇治山田の米友が、二メートルの木の香新しい削り立ての木柱を軽々とかついで、この祭の座に姿を現わしたのは――
五
米友が距離に誤まられて、意外に時間をつぶしたことの申しわけをしているのを、道庵は空《くう》に聞き流し、それより道庵の揮毫《きごう》がはじまります。
さいぜん、すり置かれた墨に、新たに筆を浸して、それをただいま、米友が運び来《きた》った二メートルの削り立ての木の香新しい木柱に向って、道庵先生が思案を凝《こ》らしました。
事態が少しずつ、追々と分明になって参ります。竹藪《たけやぶ》の外にも、中にも、本尊が無いと心配した最初の杞憂《きゆう》もどこへやら、新たにこの木柱に向って、信仰の象徴が掲げられるわけですから、その現わす文字の如何《いかん》によって、今宵の祭典の理由縁起も分明になるわけですから、まあ暫く見ていて下さい。
件《くだん》の木柱を、祭壇の前の程よきところへ寝かして、道庵はしきりに、文句の吟味と、字配りの寸法に、思案を凝らしているようでありましたが、並《な》みいる連中は、この老先生のお手のうちを拝見しようと息をこらして、固唾《かたず》を呑んでいるばかり。やがて道庵は墨痕あざやかに、すらすらと次の如く認《したた》めました。
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「豊臣太閤誕生之処」
[#ここで字下げ終わり]
この八文字が墨痕あざやかに認められたのを見ても、並みいる連中、うん[#「うん」に傍点]ともすん[#「すん」に傍点]とも言いません。存外やるな! と、
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