その書風に感心の色を現わしたものもなく、また、待ってましたとばかり、ひやかし[#「ひやかし」に傍点]を打込むものもありません。
さてはこの先生のことだから、何を書き出して人の度胆を抜くか、いやがらせをやるか、とビクビクしていた者もなく、極めて常識的に出来上ったのが物足らないくらいのものです。
そうしてこんどは側面を返して、それに年月日を書きました。
これもまた極めて無事であります。
それから念入りに裏面を返して、そこにまず「施主」の二字を認めて暫《しばら》く休み、次にやや小形の字画で、
[#ここから1字下げ]
「江戸下谷長者町十八文道庵居士」
[#ここで字下げ終わり]
と書き飛ばしたが、誰も驚きませんでした。
それと押並べて、
[#ここから1字下げ]
「鎌倉右大将宇治山田守護職米友公」
[#ここで字下げ終わり]
と書きましたけれども、一人として度胆を抜かれたものもなければ、ドッと悪落ちも湧いて起りません。
天下に、切っても切れない不死身《ふじみ》、洒落《しゃれ》てもこすってもわからない朴念仁《ぼくねんじん》、くすぐっても笑わない唐変木《とうへんぼく》、これらのやからの始末に困るのは、西郷隆盛ばかりではないらしい。
さすが道庵の悪辣《あくらつ》も、この善良なる、平和の里の紳士淑女に向っては、施す術《すべ》がないようです。ただただ悪辣も、奇巧も、無智と親切という偉大なる力に、ぐんぐん包容されてしまって、件《くだん》の木柱は、敬虔《けいけん》なる態度で、お世話人衆の手によって運ばれ、そうして最初からの問題であった竹藪《たけやぶ》の中に持ち込まれると、そこにもう、あらかじめ、ちゃんとその木柱の根が納まるだけの穴が待っておりました。
それへ恭《うやうや》しく木柱が立てられると、そこで祭りの庭のすべての体《てい》が整うてきたと共に、今宵の祭典の意義も充分に明瞭になりました。
すなわち道庵と米友とが、仮りに施主となって、日本第一の英雄、豊臣太閤の誕生地を記念せんがためのお祭でありました。お祭でなければ供養でありましょう。供養でなければ施餓鬼《せがき》かも知れない。
してみればこの地点こそは、日本一の英雄を産んだところに相違ない。そうだとすれば、他所であるべきはずはない、日本国東海道はいつのおわばり[#「いつのおわばり」に傍点]の、尾張の国愛知の郡、中村――の里。
木曾でお目にかかった道庵主従、いつか知らず、海道方面へ出て来て、今宵は、ここでこういう催しをすることに相成っている。
道庵先生が、いかなる動機で、こういう催しをするようになったか、それをよく聞いてみれば、必ずや、なるほどと頷《うなず》かれるに足るべき先生一流の常識的の説明が有り余るに相違ないが、それを聞いていた日には、夜が明けるに相違ない――
とにかく現実の場合、祭典の体《てい》も整い、意義も分明してきて、さて改めて本格の儀式に及ぼうとする時、疾風暴雨が礫《つぶて》を打つ如く、この厳粛の場面に殺到して来たのは、天なる哉《かな》、命なる哉です。
六
疾風暴雨というのは、いよいよ、これから祭典も本格に入ろうとする時に、この場へお手入れがあったことです。
ここは、尾州名古屋藩の直轄地ですから、お手入れも、たぶんその直轄地からの出張と思われます。今日今宵、この異体の知れぬ風来者によって、一種不可思議なる祭典が、この地に催さるるということを密告する者あってか、或いは最初から、嫌疑をかけてここまで尾行して来たか、そのことは知らないが、かねて林間にあって状態をうかがっていたことは確かです。だが、お手先もまた、この祭典が何のための、何を主体としての祭典だか、一向わからなかったことは、前に述べたと同じことの理由です。
しかしながら、今や、鮮かに木柱が押立てられてみると、証拠歴然です。
だいそれたこの風来者は、人もあろうに豊太閤の供養をしようというのだ。
親類でも、縁者でもあろうはずのない奴が、官憲の諒解《りょうかい》もなく、英雄の供養をしようというのは生意気だ、油断がならぬ、危険思想にきわまったり、者共|捕《と》ったという一言の下に、この場に疾風暴雨が殺到してしまった次第です。
善良なる村の紳士淑女も、秀才も、涎《よだれ》くりも、木端微塵《こっぱみじん》でありました。周章狼狽《しゅうしょうろうばい》、右往左往に逃げ散ります、蜘蛛《くも》の子を散らすが如く。
世話人たちは腰を抜かして、弁解の余裕がありません。日蓮宗のお寺に属する坊さんは、驚いて立ち上る途端に、せっかく丹念に擂鉢《すりばち》にすり貯めて、その余汁をもって、道庵先生の揮毫《きごう》を乞わんものをと用意していた墨汁のすりばちを踏み砕いてしまいました。そこで余汁をすっかり身に浴びて
前へ
次へ
全129ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング