ざいます、と申し上げるほかはございません」
「そうですか……」
北原はここで、また沈黙して、暫く尺八の音に聞き入っていました。
お雪も、尺八の音が起ってから、なんとなく、そわそわしたけれど、こうなっては急に立ち上るもバツが悪し、その主《ぬし》をそうだと名乗ってしまう以上は、なんだかちょっと荷も下りたような気がしますものですから、同じように、尺八に耳を傾けておりました。
「やはり鈴慕《れいぼ》ですね」
「はい」
北原はこの時、ほとんど感に堪えたようでありましたが――その途端といってもいい時、ハタと尺八の音がやみました。
その時、お雪は、急に引寄せる綱にでもたぐられたかのように、あわただしく立って、
「大へん長くお邪魔をしてしまいましたが、ちょっと失礼して参ります、用事が済みましたら、また上りますから」
あわてて十能を取り上げたのを、北原が火箸《ひばし》を取って、火を掻《か》いてやりながら、
「お雪ちゃん、わたしの方から、お雪ちゃんのところへ押しかけてはいけませんか」
「え、どうぞ」
お雪は、とってつけたような返答をして、二の句にまどいましたが、北原は、
「村田か、誰かつれて、お雪ちゃんの部屋へ話しに行きますが、ようござんすか」
「え、ようござんすとも、どうぞ、いらしって下さい」
この場合、悪いとも言えないし、よしこられては困る場合であっても、お雪には、それを断わるようにすげない挨拶はできないたち[#「たち」に傍点]ですから、やむなく承知の旨《むね》を答えました。
「それじゃ上ります、その時にですね、お雪ちゃん、あなたのそのお連れの方に、我々をひとつ御紹介ねがえますまいか、御病気がお悪ければ遠慮を致しますが、あれを、あれだけにお吹きになる元気がおありになるのですから、我々に御面会くだすっても、たいしたおさわりにもなるまいかと存じます」
「それはそうですけれどね」
「いけませんか」
「いけないはずはありませんが、当人がずいぶん、きむずかしい人ですから、もしや、失礼があっては済まないと存じます」
「どう致しまして、失礼の段では、我々人後に落ちません……あなたのところへ遊びに行くのはいいが、お連れの方に御挨拶なしにはいられませんからね。御迷惑のようでしたら、早々引上げますよ、人の気も知らないで、腰を落ちつけているような、心なき業《わざ》は致しません」
「いいえ、座敷は別になっていますから……かまいませんけれど、とにかく、お遊びにおいで下さいまし、あなたお一人でも、村田さんをお連れになってもかまいません」
「では、後刻上りますよ」
こうして、お雪は火を持って、三階の自分の部屋へ帰って参りました。
十六
お雪ちゃんが帰ったあと、北原賢次は、黍《きび》を煮ている鍋を下ろして、大鉄瓶《おおてつびん》とかけかえ、小鳥籠を前にしてぼんやりと、火にあたっているところへ、村田寛一が、胸に弥蔵《やぞう》をこしらえながら、ブラリとはいって来ました。
「どうしたエ」
「今ね、お雪ちゃんが来たところなのだ、珍しいから無理に引きとめて無駄話をしてみたところさ」
「それは珍しかったね」
「そればかりじゃない、話が少しハズンだものだから、いずれそのうち、こちらからお雪ちゃんのところへ押しかけて行ってもいいかエ、と聞いたら、いいと言ったよ」
「何だい、つまらない、悪いとは言うまいさ。しかし……」
「そうさ、穴蔵のような冬の白骨の天地に、こうして一つ宿をしているのだから、おたがいに、誰がどこへ押しかけたって不思議はないはずなんだが、今までお雪ちゃんのところばかり、まだ誰しも御無沙汰《ごぶさた》をしていたようだ、それじゃ済むまいというわけでもあるまいが、ようやく、こちらから押しかけてみようという口火をきったのは、我々の方で今日が初めてだろう。それが今更のように不思議ではないか、そんなことが改まって、いまどき切り出されるようになったことが、おかしいじゃないか」
「それは遠慮というものさ」
「遠慮とはいうけれどもね、若い娘っ子をめあてに、接近をしようなんていうことこそ、おたがいに遠慮をしなけりゃならんが、お客同士の気分で行ったり来たりする分に、何の遠慮がいるものか」
「いや、そのことじゃないのさ、お雪ちゃんの傍には大変に重い病人がいるとのことだから、それで皆が遠慮していたというわけだろうじゃないか」
「なるほど――考えてみればそれだな、それが遠慮の第一理由であったかに思われるが、それにしても見舞に行って悪いということも、見舞にも来てくれるなとも言われなかったはずだ、どちらにしても遠慮が少し過ぎていたように思う、それが今日は、徹底されたようなわけだから、これから、君、ひとつ、二人でお雪ちゃんを驚かそうじゃないか」
「それもよかろう、だが、
前へ
次へ
全129ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング