看病の大病人というのに、さわりはないか知ら」
「ところが、それをたずねてみるとね、病気のせいか、なかなかきむずかしやだから、もしか失礼に当ってはなんて、お雪ちゃんが言うものだから、御病気は知っていますがな、あの笛の音では……あの尺八の気力では、そう今日明日というような御病体でもなかりそうだし、日増しによくなってくるような音色じゃないか、とそのことを言ってやると、お雪ちゃんも、拒《こば》みきれないという様子だった」
「うむ、問題のあの尺八な」
「それそれ、あの尺八の主がすなわち、お雪ちゃんの侍《かしず》いている大切の病人なのだ」
「いったいあれは何者なのだい、正体がわかったかね。最初のうちは、単に病みほおけた親爺《おやじ》さんかなにかだろうと、我々の間でもタカをくくっていたのだが、短笛の主の見当がそれと定まってから以来の、大きな疑問じゃないか――それを聞いてみたかね、お雪ちゃんに」
「それは聞かない、聞かないけれども、あえて聞く必要もないじゃないか――最近にその人を見ることができるんだもの」
全くその通り、あの尺八の音が聞え出してから、やや暫《しばら》くあって、この炉辺閑談に集まる人も、集まらない人も、問題がその音色に集まったということは、あの短笛が世の常の俗曲を吹かなかったというばかりではない、集まっている者の大多数が、お神楽師《かぐらし》を名乗るくせ[#「くせ」に傍点]者であっただけに、物の音色について、かなりやかましい耳を持ち合せていたらしい――そこで問題が紛糾《ふんきゅう》して、やや、悩ましいものにまでされている。
十七
「あれは、老人や、女子供の吹く音色じゃないよ。そうかといって、うらぶれた通り一遍のこも僧[#「こも僧」に傍点]の歌口でもない、いやに人を悩ます吹き方だ」
と一人が言ったことがある。そうすると他の一人が、
「ありゃ、女殺しの吹く笛だよ」
と口を出したものだ。その女殺しと言ったのは誰だったか知らんが、つまり、鈴慕《れいぼ》をよく聞きわけて、音に対して、たしかに見識をもっていた一人、北原ではなかった、村田でもなかったし、池田良斎ではなかったし、今、その誰だったかは、ちょっと記憶に無いが、しみじみと鈴慕の曲に聞き入りながら、あれは女殺しの吹く笛だよ、と言い捨てたものが確かにありはあったのである。
「うむ――なるほど」
と一座も、それを承認したかのように、力を入れてうなずいて、なお、その曲の赴《おもむ》くところを終りまで聞いたことがあります。
「女殺し――」といったのは、どういう意味かよくわからない。誰も、それを押して問う者もなかったが、一座がそれを茶化した意味にも、冷かした意味にも、嘲《あざけ》り笑った意味にも取らなかったことは事実です。
それ以来、お雪ちゃんの看病しているという大病人が、老《お》いぼれた、血の気のかれきった木石ではなく、何か、そこに解けきれない、たんまりしたものが滞っているような歯痒《はがゆ》い気持を、一同に持たせてしまったことも事実でありました。
お雪ちゃんの、肉身の祖父とか、父母とかいう人では無論ない、男性とすれば、叔伯系の尊族――もう少し近く持って来れば、肉身の兄ではないか、というような噂《うわさ》が、ちょいちょい話題に上ったこともないではなかったのです。
だが、その後は、鈴慕の音色が時あって、不意に起り来《きた》ることはあっても、それは一座会同の席の場合に、聞き合わせることは滅多になかったから、箇々に、離れ離れにこそ、あの音色を問題にしたり、多少の悩みを覚えたりしたことはあっても、「女殺し」といった、印象的批評が、共通して誰もの頭に残っていたわけではなく――なかには仏頂寺弥助の如く、ほとんど、身も世もあられぬほどに、あの音色を嫌いぬいたものもあるが、そのほかは概して、その遣《や》る瀬《せ》なき淋しさから、淋しさの次にあこがれの旅枕の夢をおい、やがて行き行きて、とどまるところを知らぬ、雲と水の行方《ゆくえ》と、夢のあこがれとが、もつれて、無限縹渺《むげんひょうびょう》の路に寄する恋――といったようなところに誘われます。吹く人に心あってもなくても、楽と器とがそう出来ている。左様に人の心を誘《いざな》うように出来ている。そこで、聞くほどの人が、甘い悩みと、重い魅惑を誘発されぬということはない。お前さんと一緒に行けば、死ぬことはわかっていても、殺されるよりほかに道はないと知りながらも、わたしゃお前さんを離れることができない――といったような恨みが、この一曲にこんがらかって、もつれて、取去ることはできないらしい。
本来、鈴慕《れいぼ》の曲は、そうあってはならない。そうなければならないものであって、しかも、それで止《とど》まってはならないはずのものであるのに――
「
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