白骨へ行く代りに、そちらへ行って済むものならば、そちらへ行きたいと思ったばかりです、深くお気にかけなさいますな」
「お前は、熊本が好きですか」
「御先祖の地だということが、どうも、絶えずわたしを引きつけて、どうしても肥後の熊本が、墳墓の地のように思われてなりません」
「御先祖の地は熊本ではない、この尾張の国が、本当に、御先祖の発祥地だという気にはなれませんか」
「どうも、それが……どうしても、そういう気になれないで、熊本が、ほんとに慕わしい故郷の地……というような気ばかりしてならないのです」
「お前までがそれだから、縁があって、縁の無い土地というものは仕方がありません。ほんとうに、よく覚えておいでなさい、加藤という加藤家は多いけれども、清正公の最も正しい血筋を引いたのは、お前だけですよ、お前が亡くなると、加藤清正公の正しい血筋は絶えてしまうのです。そのお前が……お前に加藤家の血統を絶やさないようにと、わたしがどのくらい苦心をしているか、それをお前にわかってもらわなければなりません。加藤清正は、秀吉公の御親類で、まさしくこの尾張が故郷であるのに、あの名古屋の城の天守も、清正公が一期《いちご》の思い出に、一手で築いたものであるのに、その清正公は尾張の土になれないで、肥後の熊本に祀《まつ》られていますけれど、あの名古屋の城の天守を見るたびにわたしは、あれを一手に築いて、徳川の一族に捧げた清正公のお胸の中を思いやると、胸が涙でいっぱいになります。そこで、わたしはどうしても加藤の家の血統はたやしてはならない――という気になっているのです。わたしが今、こうして無事に離縁を取って、行いすましたような暮らしをしているのも、一つはお前を見たいからです、お前の看病をして上げたいからです。どんなにしても、お前の身体《からだ》を丈夫にして、お前のあとを絶やさないようにして、そうして加藤清正の正しい血統の者の眼で、尾張名古屋の城を見返してやりたい。いつか知らず、そんな時が来るような気がしてなりません。清正公が丹精して、一期の思い出に築いて置いたあの名古屋の城は、決して徳川に捧げるためではありませんでした、いつか、わが一族、広くいえば豊臣か加藤か、両家の者……その最も正しい血統の者の手にかえされる時がある、わたしはそのような夢に襲われ通して来ました。それですから、あの名古屋城を見るたびに、主家の本丸とは見ないで、奪われたわが屋敷あとを見るような気がして、いつか知らず取返さねばならぬ、時が来たらば、再びわが手に落ちて来る、というような予感にかられ通して来ました。でも、いくら夢に襲われても、女の身では仕方がありません、縁づいた先に子供は幾人あっても、それが同じように加藤を名乗ってはいても、いずれも血は薄い、この世には、清正公の血を引いた家筋で、お前とわたしより濃いのは無い、その二人が、一人は女で、頼みきった男のお前が病身――わたしのこの残念な気持を察しておくれなら、お前はどうしても丈夫にならなければなりませんよ――お前が丈夫になると共に、お前の血統を絶やしてはなりません。わたしの血ではもう薄いのです、お前のでなければなりません。お前は自分の身体をよくすると共に、どうしても、お前の子孫というものを持たねばならない責任を忘れてはなりませんよ。加藤を名乗るもの、清正公の系図を引くという家柄は多いけれど、お前より正しい者はありません。その正系のお前よりも、傍系の、あるかなきかの系図を言い立てた者が上席にいて、我は顔[#「我は顔」に傍点]をするのを、お前は口惜《くや》しいとは思いませんか。それを口惜しいと思うなら、お前は今いう通り、丈夫な人になって、お前の血統を絶やしてはなりません。たとえどんな不具《かたわ》でも、馬鹿でもよいから、お前の胤《たね》というものに加藤の家をつがせて、尾張名古屋の城を見返すように、この、わたしがついています」

         十三

「久しぶりにお目にかかります、私は弁信でございます。どうぞ皆様、御心配下さいますな、これでも旅には慣れた身でございます、旅に慣れたと申しますよりは、生涯そのものを旅と致しておる身でございます、生れたところはいずことも存じませぬように、終るところのいずれなるやを、想像をだに許されていないわたしの身の上でございます――はい、甲州、有野村の藤原家を尋常に、お暇をいただいて出て参りました、御縁があればまた立帰って、御厄介になると申し残して出て参りました。お銀様のことでございますか。あのお方は泣いておいでになります、あれ以来、毎日泣きつづけておいでになります。あのお方のは、悲しくて泣くのではございませんよ。無論、嬉しくて泣くのではありません。どうして、泣くのです。どうして、今になって泣かねばならないのですか。火事の前
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