金が欲しいためではございません、お金が欲しいくらいならば、この清洲《きよす》へは参りません、柿の木金助ではございませんが、あの名古屋のお城のてっぺんに上って、いただいて参ります」
「憎い奴じゃ、何のたくらみあって、これへ来ました、一刻も早く立去らねば、容赦はしませぬぞ」
 許すまじき気色《けしき》を、障子の外では存外、安く受取って、
「奥様……実のところは、ふとした縁で、銀杏加藤《ぎんなんかとう》の奥方様、つまり、この障子の内においでなさるあなた様が、尾張の名古屋の城下では、第一等の美しいお方でいらっしゃるというお噂《うわさ》を伺ったものでございますから、一度お目にかかって置きたいと存じました」
「お黙りなさい!」
 その時、夫人の手にあった薙刀《なぎなた》の刃風《はかぜ》がはやかったか、縁からころげ落ちて、植込へ飛び込んだがんりき[#「がんりき」に傍点]の逃げっぷりがはやかったか、とにかく、一たまりもなく、この色きちがいのやくざ者が敗亡して、消え失せてしまったことは事実です――
 あとでは静かに薙刀の鞘《さや》を拾って納め、再び長押《なげし》へかけ直した夫人の後ろ姿。その落ちついた態度と、背丈のすっきりした形を、鮮かに見ることができました。

         十二

 暫くしてから夫人は、
「伊津丸――もう寝ていますか」
 静かに隔ての襖《ふすま》を開いて見ると、中は薄ら明るい一間、屏風《びょうぶ》が立て廻してある。
「やっぱり、眠っていますね、今の騒ぎも知らないで、そんなによく眠れるのがよいのやら、悪いのやら」
 屏風の外に立って、内をのぞくような心持。
 全く、今のあれほどの突発事件を、一切知らぬほどに眠っていたとすれば、それは、たとえ病人ではあるにしても、それにしても、たよりが無さ過ぎるほど無神経ではある。ほんとにやる瀬ない、たよりない色を、さっと面《おもて》に浮べたが、また思い直したように、
「ねえ伊津丸、このごろ、人の話にきけば、信濃の国の白骨《はっこつ》の温泉というのが、たいそう病に利《き》くそうだから、わたしは、いっそ、お前をその白骨の温泉とやらへ連れて行って、骨が白くなるほど湯につけて上げたら、少しは利くかと思いました。お前その気がありますか。白骨の湯というのは、ずいぶん遠く、険しく、淋しいところにあるそうだけれど、お前さえ行く気なら、わたしも一緒に行かないとは言いません。どうだね、行く気がありますか、その信濃の国の、白骨の湯というのに……」
 眠っていると知りつつ、こんなように口説《くど》いてみたのは、自己安心の気休めを試みてみたのでしょう。ところが、今度は意外にもてごたえがありました。
「お姉様、あなたが、一緒に、いらしって下さるところならば、どこへでも参りますが……」
「おお、お前、目がさめていましたか、そうして、その白骨というところまで行ってみる気になりましたか」
「お姉様の思召《おぼしめ》しなら、どちらへでもお連れ下さい」
「では、お前、白骨へ行きますか」
「はい……」
「といって、すすめたわたしが、お前に素直に同意をされてみると、また二の足を踏みたいような心持。話の上では、どうにでもなるけれど、事実、ほんとうに、病人のお前と、女の身のわたしとが、その白骨まで行くのは、生きながら命がけの旅ではないか知ら、と思われないでもありません」
「御迷惑なことでしょうね……」
「でも、そこへ行ってほんとうに、お前の病気に利《き》き目《め》があるものならば……ずいぶん命がけの旅もしてみましょうけれど、事実ホンの噂《うわさ》だけで、それほどの旅を、仕甲斐《しがい》があることやら、ないことやら……一つ間違えば……いったい、わたしはその白骨という名前からして、気になってなりません」
「ハッコツとは、どういう字を書きますか」
「シラホネと書くのです、白い骨という字だから、ぞっとするではありませんか」
「名は何でもかまいません。それでも、お姉様、あなたがお気が進まないならば、わたしもいやです」
「気が進まないというわけではありません、いっそ、気はハズミ過ぎているくらいですから、すすめてもみたのですが、場所が場所だけに、二の足も踏むのです」
「白骨の湯もいいでしょうけれど、わたしは正直にいえば、お姉様と、肥後の熊本へ行きたいのです」
「熊本へですか」
「ええ」
「だって、熊本には、お前の病気を療治するようなところは、ないじゃありませんか」
「でも、わたしは、尾張の国の名古屋城下で死ぬよりは、肥後の熊本で死にたいのです」
「いいえ、お前はまだ、死ぬということを言ってはなりません、それを思ってもいけないのです、ですから、熊本へはやれません」
「阿蘇の山ふところには、湯の谷だの、栃の木だの、戸下だのという温泉があると聞きました、
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