れた蛇の目、それが比翼に散らしてあるのが、見渡す限りずっとこの一間を立てきっている。それを朱塗の丸行燈《まるあんどん》が及ぶ限り映して、映し足りないという色を見せているものですから、さながら古城内の評定の間を思わせるような、広さと、わびしさを漂わせている中で、経机の上に置かれた短冊と、筆とが証明するように、この夫人は、歌を思うているものらしい。
 五条川の水の音も静かだし、古城址に啼《な》く梟《ふくろう》の音も遠音に聞えて来るし、木立《こだち》の多い広い屋敷の中の奥まったこの建物の中の夜は、いかさま歌を思うのにふさわしいものらしい。
 右の桔梗と、蛇の目の紋散らしの襖の外で、その時軽く咳《せき》が起る。
 絵のような時代のついたこの御殿の一間に、ただひとり、歌を思うているとばかり思うていると、今の軽い咳。軽いというよりは、病人を暗示するような咳によって見ると、次の座敷に人がいる。
 二三度、軽く咳入って、それから静かな寝返り。どうしても病める者の気配《けはい》としか思えない。
 それだけで、また、ひっそりと元に返ったけれども、歌を思うには、少しさわりになったと見えて、
「伊津丸《いつまる》、寒くはない?」
「いいえ――」
 かすかながら返事がある。それは果して病人である上に、幼い人であるらしい。
 その時、夫人は、脇息《きょうそく》のように肱《ひじ》を置いていた経机へ、正面に向き直りましたから、今まで蔭になっていた床の間の画像が、ありありと見え出してきました。
 床の間には肩衣《かたぎぬ》をした武将の像が一つ、錦襴《きんらん》の表装の中に、颯爽《さっそう》たる英姿を現わしている。
 その肩衣も至って古風で、髪も容《かたち》もおのずから、それに準じているのが、威あって猛《たけ》からずという武将の面影《おもかげ》が、さわやかに現わされているうちに、何としてか抑え難い痛々しさが、画像の上に流れていることを如何《いかん》ともし難いように見える。
 よく見ると、肩衣の武将の定紋《じょうもん》も同じく桔梗になっている。それは誰しも見覚えのありそうな武将の面影ではある。織田信長にしては面長《おもなが》な、太閤秀吉としては大柄な、浅井長政にしては鬚髯《しゅぜん》がいかめし過ぎる。
 そうだ、桔梗の紋が示している通り、それは加藤肥後守清正である。
 世の常の立烏帽子《たてえぼし》の大兜《おおかぶと》に、鎧《よろい》、陣羽織、題目の旗をさして片鎌鎗という道具立てが無いだけに、故実が一層はっきりして、古色が由緒の正しいことを語り、人相に誇張のないところ、これは清正在世の頃、侍臣手島新十郎が写した清正像にしっくりと合致する。
 その画像の前には具足櫃《ぐそくびつ》があって、それと釣合いを取って刀架《かたなかけ》がある。長押《なげし》には鎗《やり》がある。薙刀《なぎなた》がある。床の間から襖にそうて堆《うずたか》く本箱が並んでいる。
 そこで、再び歌を思うことに気分を転じようとつとめる途端、ふと何かの気配を感じて、縁に沿うた連子窓《れんじまど》を見ました。そこに何やらの虫が羽ばたきをしている。その虫の音ではない、別に廊下でミシリという音がしたから――
「誰じゃ」
 手にしかけた筆の軸を置いて咎《とが》めた夫人の声に、凜《りん》とした響きがある。
 同時に、ちらと長押の上を見やったところには、薙刀がある。
「誰じゃ、それへ見えたのは」
 圧《おさ》えて、しごくような咎めに遭って、のっぴきならぬ手答えがあった。
「え、深夜のところをお邪魔を致しまして、まことに相済みませんことでございます」
 いやに、しらちゃけた返事が、何ともいえないいやなすさまじさを与える。
「え、誰じゃ、何しに来ました」
 さすがの夫人も、最初の凜とした声の冴《さ》えを失って、一時は、度を失った狼狽《ろうばい》ぶりも見えたようです。
「御免下さいまし、御免下さいまし」
「おお、そちは曲者《くせもの》な、ちょっともその障子をあけることはなりませぬぞ」
「はい」
「無礼をすると許しませぬぞ、何ぞ用事があらば、それにて申してごらん」
「え、え、別に用事といって上った次第ではございませんが……またこの通り丁寧に御挨拶を申し上げてるんでございますから、決して御無礼なんぞを致すつもりもございません」
「深夜人の住居をおかす、それが無礼でなくて何であります」
「え、それは、その、憚《はばか》りながら、私共の商売だもんでございますから」
「あ、わかりました、そちは金銀が欲しいのだろう、金に困って、盗みに来たものだろう」
「え、左様なわけでもございません、それは時と場合によりましては、ずいぶん、お金が欲しくて、皆様のところへ頂戴に上ることもないではございませんが、今晩、このところへ参上致しましたのは、お
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