後のことは、わたくしがここで申し上げませんでも、皆様、たいてい御推察のことと存じます。あの前後には、お銀様は泣けなかったのです、それから三日目でしたか、あの日からお銀様が泣き出しました。泣き出すと、どうしても止まることができません、わたくしも、それをお止め申すことができません、大河の堰《せき》を切ったように、あの方が泣き出してしまいました。そうしてあれから、焼残りの土蔵の二階に、泣き伏したままでいらっしゃいます。誰もそれを慰めて上げるものがありません、無いのではありません、誰も近寄ることができないのです。わたくしだとて、その通り、あの方の涙を堰《せ》きとめるほどの力は、とうてい持合せがございませんのです。ちょうど、大火の盛んなる時は、いかなる消防の力を以てしましても、手のつけようがないように、あの方の泣き出したそれを慰めようのなんのと、そんな力があるべきはずのものとも思われません――お銀様は、今もあの焼残りの大きな土蔵の中で慟哭《どうこく》していらっしゃいます、号泣しておいでになります。その泣きつづけている声が、国を離れてこうして旅に出ている私の耳に、この通り響き通しなんでございます。あの号泣の声の嗄《か》れ尽す時がいつであるか、それをわたしは知ることができません。あの溢《あふ》れ出ずる涙の川のせき止まる時がいつであるか、それも、わたくしにはわかりません――そこで、わたくしは、泣いているお銀様に、土蔵の下まで行って、黙ってお暇乞《いとまご》いをして出かけて参りましたが、無論、弁信さん、お大切《だいじ》に行っておいでなさいとも、おいでなさるなとも御挨拶はございませんでした――私も、また、どうぞ、この際、あの方に泣くだけ泣かして上げたいと思いまして――あの絶大な号泣を妨げるのはかえって、わたくしの出過ぎである、冒涜《ぼうとく》であるというように感じたものですから、お暇乞いの時も、わざと言葉には一言もそれを現わしませんで、心の中で快くお別れを告げて参りました。快く……ほんとうに今度は快くお別れをして参ったと申しますのが、いつわらざるわたくしの心情でございました。人様がそれほど泣いていらっしゃるのに、それをあとにして快く出て来たなんぞと申し上げますれば、さだめて皆様は、わたくしを憎い奴だとお叱りになることでございましょう。さりながら私は、本気に快く出かけて参りましたことをいつわるわけには参りません――わたくしは、泣けるようになったお銀様の、あの心持を喜ばずにはいられません。無論、あれは喜びの涙でないにはきまっていますけれども、未《いま》だ決して懺悔《ざんげ》の涙でもございません、何とも名状のできない号泣でございます。けれども、泣けるようになったお銀様、そうして泣きたくなった時に、思いきり泣くことを許されているお銀様を、幸福だと信ぜずにはおられません。そこで、私は快くこうして旅路に出て参ったのでございます。そういうわけで、お銀様には親しく御挨拶をしないで出立して参りましたが、御主人伊太夫殿へは、お世話になったお礼を述べて参りました。この錫杖《しゃくじょう》と鈴でございますか――これは、その時の伊太夫殿から餞別《せんべつ》にいただきました。そうしてこれからわたくしはどこへ行く? とおたずねになりますか。はい、もうやがて間近いところの乗鞍ヶ岳の麓《ふもと》の、白骨の温泉まで私は参るその途中なんでございます……
どうして、また今時分、信濃の国の白骨の温泉なんぞへ行く気になったのか――それは一言でお答えを致すことができます。お雪ちゃんがいるからでございます、あの子がしきりに、わたくしを招くものでございますから――といったところで、手紙を一本もらったわけでもなし、飛脚が届いたというわけでもありませんが、どうも、あのお雪ちゃんが絶えず、わたくしに呼びかけているのが、かわいそうで、気の毒で、たまらない気がするものですから、どうしても行って上げたい気になってしまいました。私の逢って上げたいと思う人は、お雪ちゃんばかりではありません、清澄の茂太郎、あの子にもめぐり逢いたくってたまらないのですが、逢いたくって逢わずにいるうちにも、あの子のは心配はありません、あの子はどこへ行っても人に可愛がられます、人に可愛がられ過ぎるから、人以外の者にかえって親しみを感ずるような子供でございますから、高山深谷、あるいは大海原の只中《ただなか》、あるいは無人の原野の中へ一人で抛《ほう》りっぱなしにして置きましても、心配というものは更にございません。それに比べるとお雪ちゃんはかわいそうです、茂太郎がわたしに逢いたがっている心と、お雪ちゃんがわたしを頼りにする心とは、性質が違うのでございます――私の今の感覚によって想像してみますと、茂太郎は海の方へ出ていますね、多分、房州の故
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