さんがしきりに、房州へ行きたがっているという話を聞きましたが――そこで、なんなら、わしが代ってその房州とやらまで行って上げてもいいと、そんなことを、ふと思いついたものだから、今日は久しぶりで訪ねて来てみる気になったのだよ」
「ああ、それはようございました、なるほど、おじさんならば……ほんとうに、房州までお使をお頼み申したいことでございます」
「おやすい御用だね」
「房州といえば、ずいぶん遠いところでしょうが、与八さんでは日数がかかるし、それに与八さんは、ここをはなせない人になっているし、あのムク犬は怜悧《りこう》な犬ですから、ひとりでやれば行きますけれど、犬のことだから、用の足りないこともあるし、道中が心配になります、それで、どうしようかと、毎日考えていました。おじさん、あなたが行って下されば、願ったりかなったりです」
「そんなことは全くおやすい御用だ――房州は何というところだね」
「洲崎《すのさき》というところでございます」
「洲崎――あんまり聞いたことのねえ名だが、なあに、たずねれば直ぐわかるだろう」
「江戸の霊岸島から、船で行くといいそうでございます」
「船はいけないね、千葉の方から内海を一走りした方が楽だろう」
「どちらでもかまいません――洲崎に、わたしが只今お預かりしているお子さんのお父様がおいでになるのです、そこへお便りをしていただきとうございます」
「うむ、何という人だね」
「以前は、駒井能登守様といって、甲府の勤番支配をつとめていらっしゃいました」
「え、甲府の勤番支配、そりゃ大物だ」
七兵衛はここで、ギクリとした思い入れ。
「はい、今は駒井甚三郎様といって、世を忍んで、房州の洲崎にいらっしゃいます、そこへおたよりを願いたいのでございます」
「たしかに頼まれました、これから直ぐに出かけましょう」
「まあ、それはあんまり」
「なあに、房州ぐらい、江戸へ出て見れば鼻の先に山が見えますよ、何でもありゃしません、ほんの一走り、この足で、ここから飛んで行きますよ」
「それでは、これから、わたしが手紙を書きますから、どうぞ少しの間、お待ち下さいまし」
こう言って、お松は引込んでしまいました。
七兵衛は、ひとり炉辺で、お茶を飲みながら待っている。
かなり長い時間――お松はかなり長い文言を書いていると見える。やがて、乳母の手に駒井の一子登を抱かせて、三人で出て来て、
「お待たせ申しました」
お松は炉辺へ坐って、七兵衛に手紙を差出して、
「委細はこれに書いてございますから、駒井の殿様にこれを差上げていただきとうございます、それから、おじさん、ちょっとこのお子さんをごらん下さいまし」
「はいはい」
「これが駒井の殿様のたった一人の御血統なんでございます、この通り虫気もなく、すこやかにお育て申しておりますから、殿様にそれを申し上げて下さいまし」
「はいはい、よくねんね[#「ねんね」に傍点]していますね、争われないものだ、いいお子さんだ、立派な御人相だ」
七兵衛は、登の面《かお》をしげしげと見入りました。
「ほんとうに、このお姿を殿様に、一目でも見せてお上げ申したいと思います」
「尤《もっと》もだ、尤もだ。その殿様はまだこのお子さんをごらんになったことがないのかえ」
「ええ、まだ親子のお名乗りさえしていらっしゃらないので、登様というお名前も、わたしがつけて上げたのです」
「そうですか、早く、このお子さんに、親子の名乗りをさせてお上げ申したいものだな、そうして、すんなりと御家督をついで、お家繁昌ということにして上げたいものだ、お松さん、頼みますよ」
「はい、わたくしも、そのことばかり願っておりますのよ。あの殿様は、今の時世にはエラ過ぎるので、ああして隠れていらっしゃいますが、やがて、世にお出なさる時は、どんなにめざましいことでしょう。その時になって、駒井のひとり子があのザマだと言われては、わたしの恥にもなりますから、きっと立派な方に育ててお目にかけるつもりでおりますと、そのことをよく殿様にお取次ぎ下さいまし」
「あ、わかった、わかった、いい心がけだ、お松さん、お前の心がけには感心した、世間の女房と娘に、その心がけの百一さえあってくれりゃあ、こんなことにはならねえのだ」
「何をおっしゃるのです、おじさん、それではあんまり愚痴っぽく聞えてしまいますよ」
「ハ、ハ、ハ、自分のことと、人様のこととを取交ぜて考えるものだから、つい……これを見るにつけてもなあ、お松さん」
「はい」
「こんな血統の立派な、胤《たね》の正しいお子さんにしてからが、やっぱり親の手を離れて置くと、どちらにも心配があるというものだ、ロクでもねえ百姓の倅《せがれ》の、馬鹿野郎のガキでも、親となり子となれば、それを思う人情には変りはねえというものだから……あの与八な
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