行きたがりませんか」
「どこへも行きたがりません、行きたがっても、もう、ちょっと動けないでしょう」
「どうして」
「あの人は、人様の子供を二人も自分の手で育てていますからね。そのほかに、近所の娘たちや子供を集めて、いろんなことを教えたり、諸方へ頼まれて行くものですから、今では、ちっとの隙《ひま》もありません、よそへ出たくも出られないでしょう」
「それはまあ結構なことだ」
「でも、お松さんは、房州へ一度行きたい、行きたいと、口癖のように言っていますよ」
「房州へ?」
「え、え、ほかにも行きたいところはあるようですけれど、それはあきらめるが、房州へはぜひ一度行きたいものだが、行けないと言っていますよ」
「はてね」
「あの登様というののお父様が、房州に住んでいるとか言っていました、そのお父様に一度逢いたいと、こう言ってお松さんが、わしに相談をすることがありますけれど、お松さんひとり出向いて行くわけにもいかず、わしもお松さんを置いて出かけるわけにもいかず、困っていることもあります」
「なるほど――して、その登様という子は誰の子なんだね」
「登様というのはまだ赤ん坊でしてね、お松さんが預かって世話をしているのです、いい坊ちゃんですよ」
「ははあ、そのお父さんという人が、房州に住んでいるのかね、房州で何をしているのです」
「何をしていますかね」
「それには事情がありそうだ――ではね与八さん」
 この時、七兵衛が膝を立てました。
「はい」
「わしは、お前さんとこのお松さんはよく知っているのだがね、わけがあって、御無沙汰《ごぶさた》をしている。明日の朝、わしがお松さんに会いに行くからってね、そう言って置いて下さい」
「はい、そう言いましょう、お前さんはどなたでしたかね」
「わしは、裏宿の七兵衛といえばわかります、ないしょで言って下さい、わしの名は、なるべく小さい声でお松さんの耳へ入れて下さいよ」
「はい」
 ここで、七兵衛は再び斧を取り上げて、薪のこなしにとりかかりました。
 与八は、犬を引きつれて、帰り路に向います。この時まで、七兵衛を見まもっていたムク犬は、全く無事に与八について引上げる。その人と犬との後ろ影を、七兵衛は、いったん取り上げた斧を下におろして、じっとながめていること久しいものでありました。

         六十二

 果して、その翌朝、まだ暗いうちに七兵衛が、沢井までお松をたずねて来ました。
「まあ、おじさん」
 こんな近いところにいながら、お松は、七兵衛に会うの機会が極めて少ないことでありましたから、無上の珍客として、なつかしい思いが先に立つのです。
「御無事で結構だね、お松さん、このごろどこへ行っても大へん評判がいい」
「ほんとに、おじさん、暫くでございました、青梅の方へ通りがかりの時、おたずねしてみたのですけれど、お留守だものでしたから、つい失礼いたしました」
「いや、わしの方もこれで貧乏暇なしなもんですから、つい……昨日、ふと与八さんに逢ったものだから、急にその気になって出かけて来ましたよ」
「まあ、きょうは、ごゆっくりなさいまし」
「ゆっくりしていたいんだがね、なかなかせわしない身体《からだ》で、こうしているうちも落着かねえような仕儀だから、おかまいなさんなよ」
「そんなにお忙がしいのですか」
「いや、百姓の方は、そんなでもないがね、人様から言伝《ことづて》を頼まれて、飛脚同様な役を背負わされるものだから、昨日は東、今日は西と、せわしい身体だよ」
「大抵じゃありません――」
「頼まれると、いやとも言えず、つい、うかうかと進み過ぎてしまって、ああ取返しがつかねえ……とこう思った時は後の祭りだ」
「ホ、ホ、ホ、何ですおじさん、人様から頼まれて、そんなに大仰に悔《くや》まないでもいいじゃありませんか」
「ハ、ハ、ハ、頼まれたことを悔むわけじゃねえが、ちっと進み過ぎて、もう今じゃ後戻りができず……お笑い草だねえ」
「いいえ、そんなことはありません。おじさんは、わたしを背負って山を下る時なんぞは、ずいぶんお足が早うございましたが、里へ出ると、あたりまえになってしまいますね、おじさんの足の早いことなぞは、青梅あたりにも知っている人は一人もないようですね、わたしだけが、それを知っているような気持がします」
「頭がいいのなら名誉にもなりますがね、手の長いのや、足の早いのは、あんまり自慢にはなりませんからね」
「ホ、ホ、ホ、手の長いのは自慢にはなりませんけれど、足の早いのは結構じゃありませんか、わたしなんぞも、こうして今では不自由なく、この地に根が生えたようなものですけれども、それでも、おじさんのように足が早ければ、行ってみたいと思うところがいくらもありますけれど、女の足では仕方がありません」
「その事、昨日、与八さんから、お松
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