のように警戒する。
だが、犬は動かない――
知る人は知ろう、この犬は間《あい》の山《やま》以来、七兵衛を見れば必ず吠えた犬です。吠えて飛びかかった犬です――飛びかかって、骨を食わなければやむまいとした犬です。その都度都度、七兵衛なればこそこの犬の鋭鋒を外《はず》して来たもので――外しは外したが、それはほとんど命がけでありました。
恐るべきものを恐れない七兵衛は、この犬をこそ最も恐れておりました。
今や、また、ここでこの強敵に出会《でくわ》した。これを外すは、木に登って避けるよりほかはないと思いました。
ところが、今日はその呼吸が少し違う。前いったように、戦意を示す吠え方でなくて、この山中、思わぬ人に出会したという驚異の吠え方であって、それのみか、一声吠えた後の犬の挙動が全然違います。
第一、あの眼の色が違います――殺気がありません、敵意がありません――無論多少の警戒はありますが、その警戒のうちに、充分和気の存することを七兵衛が見て取りました。犬が折れたのではない、こちらの疑いが晴れたのだという感じ……
こうして、犬と人とが睨《にら》み合うこと多時――その間、群犬は、林の中を縦横に飛び廻って、飛び遊びます――
この時ふと、人間の口笛の音がする――犬が出て来たのと同じ方向から、人が出て来たのを認める。極めて鈍重な若い大きな男が――これも見たような男、うむうむ、せんだってのあの沢井の水車小屋にいたあの男だ。
紛《まご》う方なく与八は、口笛を吹き吹き、ムクのあとを追うて来たものと見えます。
まもなく、すべてが、姿と形を見合って、与八がまず言葉をかけました、
「こんにちは……」
その言葉と態度とで見ると、せんだっての晩、水車小屋へ潜入して、自分に、とっくりと意見を試みて行ったその人と、気がついてはいないらしい。
「こんにちは……」
と七兵衛も同じように挨拶する。
「ソダごしらえですか」
与八がいう。
「はい」
七兵衛が答える。
「犬が邪魔をしやしませんかね」
「いいえ、邪魔をしやしませんよ。その犬はお前さんとこの犬ですか」
「これはお松さんの犬ですよ」
「お松さんは、どこからその犬をつれて来ましたか」
「どこからですかねえ、江戸にいる時分からついていましたよ」
「そうですか」
「はい、でかいけれど、おとなしい犬ですよ」
「お前さんは、沢井でしたね」
「はい」
「沢井の机の若先生は、今どちらにおいでになりますか」
「竜之助様ですか」
「はい」
「あの人はどこにおいでなさいますかねえ」
「奥様は……」
「奥様というのは?」
「あれ、その、お浜様といって」
「ああ、あのお浜様か、ありゃ、江戸でお死になされた」
「おやおや、それはお気の毒な」
「気の毒なことをしましたよ」
「お子さんは……」
「お子さんというのは、あの郁太郎《いくたろう》さんのことだろう」
「ええ、郁太郎さんと申しましたかね」
「あれは今、おたっしゃで、沢井におりますよ」
「そうですか、お父さんも、お母さんも、おいでなさらねえでは、さだめて、不自由なことでしょうねえ」
「それでも、お松さんが世話をしてくれるから助かります」
「それから、和田の宇津木様はあれからどうなりましたか」
「あそこもいけませんねえ」
「文之丞様があんなにおなりなすって、あとはどうなりました、お江戸へ出ておしまいなすったそうですね」
「え、え」
「文之丞様の弟御に兵馬様という方がありましたが、あの方は時々お見えになりますか」
「あれから一遍も、こっちへは帰って来られねえようですよ」
「机の大先生《おおせんせい》は?」
「とうの昔になくなりました」
「おやおや、それはお気の毒な」
「机のお家も、宇津木も、どっちもいけませんが、机の方はお松さんがよく郁太郎様を世話しているし、宇津木の方も兵馬様の代になれば立ち直ることでござんしょう」
「お松さんという子は、どこの人ですか」
「お松さんは江戸の人ですよ」
「机のお家の御親類ですか」
「親類ですかどうですか、そのことはよく知りませんが、お松さんはいい人です、あの人がいる間は、わしもこの土地を離れられませんねえ」
「そうですか、お前さんはお松さんと仲がいいかい」
「そりゃ、お松さんは無ければならない人になっていますよ」
「もし、そのお松さんが、江戸へ出るとか、他国へ行くとかすれば、お前さんはどうしますね」
「その時は、わしも一緒に行きますね、お松さんがお嫁入りするようなことになれば、わしは下男としてでもあとをついて行きますが、あの人はお嫁入りなんぞはしないでしょうと思います」
「では、お松さんという子が、この土地にいつく限り、お前さんもこの土地を離れないのだね」
「ええ、その通りです」
「お松さんは、ほんとうにこの土地にいたがりますか、よそへ
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