、波止場から海へ身を投げてしまっていたでしょう。身を投げるのではない、海へ落ちこんでしまったでしょう。そうして、この海をかち[#「かち」に傍点]渡りするか、泳いでか、とにかく、いま出た船を追いかけて乗るつもりであったでしょう。幸いに後ろに船頭があって、もうちょっとというところで、米友を抱き留めることができました。
「危ねえ――若衆」
つかまえた船頭も、この若者が身投げをするとは見なかったでしょうが、まさしく身体《からだ》の中心を失った途端を、見てはいられなかったでしょう。
危うく溺没を救われた米友は、
「ちぇッ」
舌打ちをして、踵《きびす》を返すと、あられもない方へ、走り出しました。
「おかしな野郎だなあ」
船頭が呆気《あっけ》に取られる。身投げをする柄でもないようだし、そうかといって、捨てて置けば海へ落っこちるところを助けてやったお礼も言わず、かえって、「ちぇッ」と舌打ちを一つして、そのまま、あられもない方へ、とっとと走り出した若い者の挙動を見て、呆《あき》れ返らないわけにゆきません。
そこで、米友は、全くあられもない方へ走り出してしまいました。
宮から名古屋へ、もと来た道を順に戻ろうというのでもなし。
その昔、机竜之助が半明半暗の道をたどって、東へ下ったそれ――
[#ここから1字下げ]
「江戸へ八十六里二十町、京へ三十六里半、鳴海へ二里半」
[#ここで字下げ終わり]
と書かれた道標の文字、そんなものも眼中には入らず、ただ、あられもない方へ、横っ飛びに飛んで米友が走りました。
横っ飛びに飛んでも、到底人間の至りつくすところの道はきまっている。人里が尽くれば原、原が尽くれば山、大きな川か水があって、それが尽くれば、その先はまた地続き、そうして、ついに行きとまるべきところは海――
日本の国は四方が海だから、米友の足を以てしても、幾日か飛ばし通しに飛ばせば、四海のうちのいずれかへ行き止るにきまっている。
幸いに、その行止りが存外早いことでありました。
当人は、どちらへいくら走ったか知らないが、ものの二里とは行くまいと思われる時に、パッタリと、またも一つの海に当面してしまいました。
海に当面して、右か、左かの思案を、きめねばならぬ境遇に立たせられていることをさとりました。右か、左かの思案をきめる前に、ここはどこの地点? ということを知っておく必要もあるが、それは急にはわからない。
五十三
そこで米友は、とある磯馴松《そなれまつ》の根方に来て、大の字なりに寝てしまいました。
誰か人が居合わせたら、たずねてみようとはしたらしいが、あいにく、見渡す限りのところには、人らしいものの影が見えなかったから、寝ている方がよいと思ったのでしょう。
杖も、荷物も、抛《ほう》り出して、磯馴松の下で仰向けに大の字に寝そべっていると、松の木の葉の隙間から青空が見えて、白い雲が漂う、つい枕辺では、ざざんざ、ざざんざと波の音がする。
いい心持でうとうとする、うとうとがかなりの熟睡に落ちる。眼がさめた時は、天地が灰色になっている。
あ、しまった! 寝過ごした。
杖を拾い、荷物をかつぎ取って、またも海も背負うて、人里をめざして走り出す。
「ちぇッ、お腹も空《す》いてきた、水を飲みてえな」
砂丘と草原とを行くと畑がある。その畑にさつま薯《いも》らしいのと、蕪《かぶ》と、大根とが作られてあるのを見る。
畑の前に立って、米友が暫く前後左右を見廻す――人あらば、請うて物を得ようとするつもりらしいが、あいにく、人がない。暫く佇《たたず》んでいた米友、この男には、鷹は死すとも穂をつまず、といった見識から来ているというわけではないが、一枝半葉といえども、人の物をただ取っては悪いということを知っている。その良心の鋭敏なることは、胃の腑が餓えていても、いなくても変りない。
だが、餓えと渇きとの非常である際に、必ずしも良心にそむかぬ方法と程度とに於て、胃の腑の窮乏を救ってやるということの融通は、乞食同様の旅をして歩いた経験のうちに、多少会得しているだろうと思われます。
「おーい」
と呼んでみました。
返事がない。
「おーい、この畑の持主の大将、さつま薯を三本ばかりおいらに恵んでくれねえか、それについでといっちゃあ済まねえが、蕪を一本な――」
あたりに響くだけの声で呼んでみたが、相変らず返事がない。
「ようし、一番」
米友は、懐中へむんずと手を入れて引出した巾着《きんちゃく》――それを御丁寧に用意の粗紙につつんで、畑の傍らの小松の上に置き、
「お貰い申しますぞ」
畑の中に分け入って、やにわに、蔓《つる》をたぐって、さつま薯《いも》の太いのを三本ばかり掘り取り――行きがけの駄賃といっては済まない、水気たっぷりの蕪《か
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