《めいび》をうたわないで、いかになる身にかけて来る。鳴海の字訓そのものが、歌人の詠嘆を迎えるようになっているかも知れないが――鳴海そのものにも、眇《びょう》たる人生のはかなさを教えるものがあるに相違ない。
お銀様はどうかして古えの鳴海の海を見たいと思いました。鳴海潟に啼《な》くという千鳥の声を、飽かず聞いて帰らないではおられない心持になって、それで、いずくともなく鳴海を求めて歩き出しているのです。
五十二
この際、名古屋にいた宇治山田の米友は、まっしぐらに宮の七里の渡し場めがけて走っている。
名古屋を後ろにして、やや東へ向いて走るのです。
その眼の中には焦燥はあるが、それは軽井沢の時に、主人を見失った責任感から峠を走《は》せ下った時の呼吸とは違います。
波止場に立った米友は、ちょうど、いま立ったばかりの七里の渡し舟をめがけて、
「おーい、よっちゃんよう」
俊寛もどきに舟を呼ぶ。呼べば答えるの距離は充分にある。
「友さんかい」
船ばたに現われた女人の一隊。その中でも一人が領巾《ひれ》をふる。
「よっちゃん――一足で後《おく》れっちゃったよ」
米友が叫ぶ。舟の中の女、
「ほんとに惜しいことをしたねえ、米友さん、もしかしてお前の姿が見えるかと、どんなに待っていたか知れなかったのよ」
「そうだろうと思って、一生懸命にかけて来たんだが、どうも、地の理がよくわからねえもんだからな」
「ほんとに残念だけれど、さよなら」
「さよなら」
「友さん――」
「おーい」
「お前、帰りには、きっとお寄りね、四日市で待っているからね。昨日話したろう、あの通り言って四日市をたずねて下さいね、待っているから、きっとよ」
「うーむ」
「嘘ついちゃいやよ」
「うーむ」
「そうして、それから二人で、間《あい》の山《やま》へ行ってみましょうよ、昔の人に逢ってやったら、さぞ驚くでしょう」
「うーむ」
「先生様にお願い申して、きっとお寄りよ」
「うーむ」
「帰りでいけなければ、お前、行きにお寄りな――ほんとうは、こっちから京大阪へ出る方が順なのよ」
「うーむ」
「じゃあ、きっとね、帰りにね」
こう言っている間に、舟は、隔たって行く。米友は、どう足ずりしても甲斐のないことを知る。
このところ、佐用姫と俊寛の生き別れ――波止場に棒の如く突立っている米友は、またまた死んだ者と、生きた者との区別がわからなくなってしまった。今の現在と、空想との境がわからなくなってしまった。
あの船で、あの女の子たちと共に久しぶりで帰って来た故郷の拝田村――お君が待ち兼ねている――
「友さん、どうしたの、わたしはこうして、さっきから待っているのに、それにどうしてお前、そんなに来るのが遅いの、なぜ前の船で来てくれなかったの、ごらんよ、この家を、お前の家を。二人が逃げ出した時のまま、そっくりじゃないの」
「おお、拝田村のおらが住居《すまい》よ」
「庭には鶏頭《けいとう》がある――ざくろがある、黍畑《きびばたけ》がある、鶏が遊んでいる、おお、おお、鼬《いたち》が出やがった、そら」
上《あが》り框《がまち》、鉄瓶、自在鍵――
「あの晩、わたしが、備前屋さんで、盗みの疑いを受けて、お前のところへ逃げて来たろう。そら、あの時のまま、そっくりじゃないの――」
「ああ、ムクがいない――ムクは、どうしたやい」
「まあ、友さん、あれから二人が夢中で山の方へ逃げましたね。あれっきり、この家へは帰らないでしょう。それだのに、お前、格別荒れもしないで、昔のままじゃないの。お上りよ、そんなに怖がることはないわ、もう今じゃ、土地の人、誰だって、わたしたちを疑ぐるようなものはありゃしない、みんな、むじつの罪だということがわかっているのよ」
「でも、ムクがいないね」
「どうしたろう、あの犬は、殺されちまやしないかね。友さん、お前、来るぐらいなら、どうしてムクをつれて来なかったの――」
「まあ、いいからお上りな、ムクのことは、あとで、ゆっくり探すとしましょうよ」
「どうしたの、友さん、そんなに棒のように黙って突立っていてさ」
「わたしじゃない、わたしをお前忘れてしまったの?」
「え、それじゃお前、まだあのことを根に持っているの?」
「わたしが、駒井の殿様のお情けを受けたのを、お前はまだ憎んでいるの、もう、いいじゃないの、もう、そんなことはお前、忘れてしまってくれてもいいじゃないの、おたがいにこうして故郷へ帰ったんじゃないの――ここで二人で、もう、昔の通りに仲よく暮らしましょうよ」
米友さん、
どうしたの?
どうしたというのさ、
黙って突立っていて……
怖いわよ――
まあ――
「おっと、あぶない、若衆《わかいしゅ》――」
後ろに船頭があって、留めることがなければ、米友はその時
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